2010年5月10日月曜日

第十六章 束縛と解放との融合に関する検証(10頌)

第一頌

完全に仕上げると云う事は,先ずいろいろと歩き廻る事であり、そして、

其れを止めない事が、歩き廻ると云う事の意味である。

色々と歩き廻り、途中で止めないと云う事である。

その様な現実の有り方が、正に全ての事実であり、規則正しく前進する事で有る。


第二頌

その様な人格的な実体が歩き廻るので有り、そして、

哲学的には感覚に関する五つの要素、即ち物質的な外形、感覚作用,認識、形成作用の集合体、意識と云う客観的な要素に依存して居る。

五種類のものが求められて居る概念の其れで有り、

漠然としたものが有る訳では無く,何かが未来に向つて歩き廻るので有る。


第三頌

自分自身の為に実行する行為が、自分自身の為に実行する行為と気付かずに、自分自身の為に実行する行為として実行され、

ぶらぶらと歩き廻る事が、何処までも広がる可能性が有る。

大きな力を大きな力として感じ取る事が出来ず、

何が現実であり、何の中を彷徨うのかが解らなく成る。


第四頌

上手に整える事が、自律神経のバランスを意味する訳では無い。

何が一体現れるので有ろう。

現実に包含される事だけが、自律神経のバランスでは無い。

何が一体現れるので有ろう。


第五頌

虐殺される訳では無いし、釈放される訳でも無い。

現れる事で有り、通過する事で有り、法律に従う事で有る。

従来と同じ様に、完成する事で有り、現実の事態そのもので有る。

虐殺される訳でも無ければ、釈放される訳でも無い。


第六頌

束縛と自分自身の為にする行為、

実際に自分自身の為にする行為は、破壊される事が無い。

実際には自分自身の為にする行為に該当して無い場合でも、破壊される場合は有る。

しかし実際に恒常性の有る事例に関連して、破壊されると云う事がどうして有り得よう。


第七頌

破壊する事に依つて、思いの侭に支配を可能にする。

其の場合には事前に、破壊を離れる可能性も有り得る。

具体的に残つた事実が残存して居ないと云われて居るけれども、

行きつつ有る場合もあれば、行き終わつた場合もあり、まだ行って居ない場合も有る。


第八頌

縛られた状態が緩和されると云う事は無い。それと同じ様に、

縛られて居ない状態が、緩められる事も決して無い。

恐らく存在する事実は、束縛された状態の中でも有り、解放された状態の中でも有る。

束縛と防衛とが一組に重なり、二個一組の状態と成つて居る。


第九頌

自律神経のバランスした状態が、安定した状態で有る。

自律神経のバランスした状態は自分にも、将来具わる事で有ろう。

想像出来る状態は束縛の中に有り、解放された状態の中にも有る。

自分自身の為に実行する行為は、認識として偉大で有る。


第十頌

自律神経のバランスした状態は,自分自身が努力して入つて行ける境涯では無い。

目標の無い流浪として、力ずくで取り除く必要の有るものでも無い。

あそこには何かが有り、此処には目標の無い流浪が有る。

自律神経のバランスした状態と取り替える事の出来るものは、何も有りはし無い。