第七章 綜合的な客観世界に関する検証(34頌)
第一頌
綜合的に創られた世界が誕生した際には、
其処に三つの特徴が固定されて居た。
其処に於いては、綜合的に創られた世界ではない世界が現れて居り、
どう云う訳か解らないが、綜合的に創られた特徴を示して居た。
第二頌
実際に現れたものその他は、三つの部分に切り離された状態のものであり、
充分に特徴の表示されたものでは無く、
綜合的に創られた世界に属し、全体が一箇所に投げ集められた様な様子に見受けられ、
一箇所に置かれたとか、同時に置かれたとかと云う風には、見受けられ無かつた。
第三頌
発生と継続と崩壊の中に置かれ、
そうで無ければ、綜合的な創造の特徴を示して居る。
一つの例として、安定して居ない状態と全く同じ様な状態が,実際に有る場合には、
その場合、綜合的な創造と異なる事実でさえ、実際に存在する事が不可能である。
第四頌
単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、
根本的な現象と呼ばれるものの中に見出されるものは、単に本人の思い過ごしでしか無い。
単純な現象が単純な現象を作り出し、其れが正に単純な現象である。
「根本的な」と云う言葉は,更にもう一度何かを生み出す働きをする。
第五頌
単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、
その様な事実が、更に根本的な現象に含まれて居るとするならば、
単純な現象が、根本的な現象でさえ生み出す事の出来ないものを生み出す事となる。
併し現実そのものが、何かを生み出すと云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。
第六頌
現実は、具体的な事実が根本的な原則に従つて生まれたものであり、
その場合には、根本的なものが生まれて来る。
根本的な現実は、単純な事実だけに依つて生まれたものではなく、
それは正に演出されたものであると云うことが、どうして有り得よう。
第七頌
この世の中は、現に生み出されつつある具体的な事実であり、
われわれの希望に従つて具体化させる事の出来るこの世の中である。
しかしこの世の中を思い通りに作り出す事が出来ない間は、
この世の中が、単なる談話の快適さを離れて、本当のこの世の中を生み出す事が難しい。
第八頌
光りは、主観的なものと客観的なものとの結合である。
従つてその姿が現れて来る。
現れて来たものは、主観的なものと客観的なものとの結合であるから、
そこに於いては、主観的なものと客観的なものとの両方が、現れて来る可能性がある。
第九頌
光の中では、暗闇は実際に存在しない。
其処に於いては、光りが正に置かれて居る。
一体何が光りを見える様にさせて居るのであろう。
恐らく明るさが、暗闇を破壊して居るからであろう。
第十頌
一体何が、現れつつ有るものの役に立つて居るので有ろう。
光りに依つて、暗闇が破壊されて居るのである。
引続き現れつつ有るものが、暗闇ではないのであるから、
その場合には、光りが眼に見えるのである。
第十一頌
其の場合には正に、具体化出来ないものが、光りに依存して居るので有るから、
やはり破壊されて居るものは、暗闇である。
この場所に唯立つて居る事でさえも、全て時間の中に位置を占めて居る事である。
現実と呼ばれる暗闇が、将来と云えども停滞して居る。
第十二頌
光りは、主観性と客観性とを共に具えて居り、
その場合には、姿を現わす。
暗闇もやはり、主観性と客観性とを具えて居る。
しかし暗闇の場合は、休息の為に横になつて寝る事を隠す為に、その事を秘密にして居る。
第十三頌
何者に依つても作られて居ない世界が、此の世の中であり、
主観的な存在の生まれて来ると云う事が、どうして有り得よう。
其処に於いては、現れたものが生まれたのであり、生んだのである。
更に何かの生まれると云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。
第十四頌
現に今始めて作り出されつつ有るもので無ければ、今始めて作り出されて居るものでは無く、
現に今作り出されつつ有るものでは無いと云う事を否定する事が、どうして不可能であろう。
その様な具体的なものが、まだ名前の付けられて居ないものを作り出す。
進行しつつ有るものもあれば、行き着いたものもあり、まだ行き着いて居ないものもある。
第十五頌
始めつつ有ると云う事は、まだ終わつて居ない事を意味する。
その場合には、此の世の中はまだ前に進んでは居ない。
その場合、何故事態が前に進まないのであろう。
はつきりと解ることは、実際に起こつた事が、口先で喋る事だけだつたと云う事である。
第十六頌
夫々のものがはつきりと存在し、
個々の事物が安定した状態で、自己の存在を具体的に示して居る。
従つて事物の存続が,実際に継続して居り、
落ち着いた状態の存続が、実際に変わる事無しに続いて行く。
第十七頌
仮に有る筈の何かが欠けて居ると,
存在が多少綜合的に見えて来る。
一定の現実が発生すれば良いと云う願望が、多少可能性があると、
その様な存在が願望されて、実在となる。
第十八頌
作り出し続ける事が、生産である。
その場合、やはり作り出そうと願望する事が、この場所である。
具体的な事物を出現させたいと願うことが、何かを作り出す事であり、
現れて来るものは、やはり多数の中の誰かである。
第十九頌
其れとは異なり、出現を強制することが目標である。
其の場合、出現は不確定である。
其処では寧ろ、存在の世界に現れて来ない事が、実際の出来事であつて、
全てが出現を強制されて居る事が、実際の事実である。
第二十頌
正に実際の出来事に即応して、効果的な生産が有り、
現実的でないものは、決してそれに付着して居ない。
実際の出来事でも無く、実際の出来事では無い事も無い様な事実が、正に其れである。
やはり正に提示されたものが、それで有る。
第二十一頌
やはり手綱でしつかりと管理された様な状態の中に於ける、効果的な生産で無いならば、
存在の中に実際に在ると、表示されて居る様な事態には成らない。
その様な事態は、正に手綱でしつかりと管理された様な状態とは成つて居ないのであるから、
現実が存在として現れて来ては居ない。
第二十二頌
立ち止まつて居ない事では無いと云う事は,存在が自分の立場の上に、しつかりと立つて居る事を意味する。
立ち止まつて居る存在は、自分の意図として立ち止まつて居る訳では無い。
立ち止まりつつある状態が、立ち止まつて居る訳では無く、
何処にも定着して居ない状態が,事実上定着して居るだけの事である。
第二十三頌
しつかりと立つて居る事は,手綱で制御されて居る状態とは違う。
存在に内在した形で,現れて来て居る。
その様な状態のものは、やはり手綱で制御された状態とは違うのであるから、
現実が存在として、現れて来る訳では無い。
第二十四頌
老化と死亡とは、宇宙の原則に含まれている。
どの様な時点でも,全ての存在の中に含まれて居る。
様々の存在は,多数の中の何かとして、自分の立場を維持して居る。
其れ等のものは、老化とか死亡とかを持つては居ない。
第二十五頌
しつかりと立つて居る状態以外の状態としては、しつかりと立つて居る状態に属して居る場合もあれば、しつかりした状態に固定されて居る場合もある。
しかしその様な状態だけに、固定されて居る訳では決してない。
どの様な態度の出現が、出現の態度の中に含まれて居ようとも、
それは主観的な態度でも無ければ、客観的な態度でもない。
第二十六頌
制御する事の出来ないものを,制御する事は出来ないし、
未だ嘗て制御出来なかつたものを、制御する事も出来ない。
其処に於いては,制御され続けて居る事が事実であり、
まだ生まれ出て居ないものを,制御する事がどうして可能であろう。
第二十七頌
しつかりと立つて居る状態に帰属して居る事は、それだけ存在して居る事を意味する。
自己管理と云うものは、他人の眼には見えて来ないものである。
特にしつかりと立つて居ない状態で無ければ、存在の状態に含まれる。
しかし特に自己管理と呼ばれるものは、外から見えるものでは無い。
第二十八頌
特に具体的に安定した状態で無ければ。安定した状態とは云えない。
何故ならば、現実は正に自己管理をするものでは無いので有るから、
また別の捉え方として、安定して居る状態そのものが、安定であると云う捉え方も有る。
正に別の異つたものが、抑制される訳では決して無いので有るから。
第二十九頌
その様な場合には、正に一切のものが、宇宙秩序そのものである。
現象が改めて現れて来る訳では無い。
存在がたつた一つのもので有る等と云う事は、実際問題として存在しないのであるから、
存在して居ない等と云う事実は、決してこの世の中には現れて来ない。
第三十頌
正に実際の出来事に従つて、存在の範囲が決まるので有るから,
自己管理と呼ばれるものは、無いものが改めて出現して来る訳ではない。
存在はたつた一つのものとして有る訳では、決して無いので有るから、
存在して居ないものが、現れて来る等と云うことも、決して有り得ない。
第三十一頌
真実で無いと云う事は、正に存在して居る事が有り得
ないので有るから、
自己管理は新たに生まれて来るものでは無い。
最高のものは、二番目のものに所属して居る筈が無いのであるから、
その場合には、一切のものがばらばらに破壊されて終う事実が見受けられる
第三十二頌
主観的な行為基準に従う事が無ければ、自己管理の状態が実在する。
自己管理の状態は、他人の行為に依つて生まれるものでは無い。
どんな形で自己管理の状態が現れて来るかと云う問題は、出現そのものの中に含まれて居る。
自己の行為に依存するものでも無ければ、他人の行為に依存するものでも無い。
第三十三頌
何かが現れて来ると云う事は、それがしつかりと立つ事であり、様々の崩壊の可能性を含んで居ると云う事でもある。
綜合的なこの世界が不完全で有ると云う事は,絶対に有り得無い。
綜合的なこの世界の準備がまだ整つて居ないとするならば、
まだ準備の出来て居ないこの世界が、将来完成されると云うことが、どうして有り得よう。
第三十四頌
例えばあの世に於いては,超自然の力とか、夢を見る事とか、
天上世界の中にあると想像されて居るガンダルヴァ市とかは、その例であり、
此の世に於いては現象、此の世に於いては安定、
此の世に於いては、言葉で説明された破壊である。
綜合的に創られた世界が誕生した際には、
其処に三つの特徴が固定されて居た。
其処に於いては、綜合的に創られた世界ではない世界が現れて居り、
どう云う訳か解らないが、綜合的に創られた特徴を示して居た。
第二頌
実際に現れたものその他は、三つの部分に切り離された状態のものであり、
充分に特徴の表示されたものでは無く、
綜合的に創られた世界に属し、全体が一箇所に投げ集められた様な様子に見受けられ、
一箇所に置かれたとか、同時に置かれたとかと云う風には、見受けられ無かつた。
第三頌
発生と継続と崩壊の中に置かれ、
そうで無ければ、綜合的な創造の特徴を示して居る。
一つの例として、安定して居ない状態と全く同じ様な状態が,実際に有る場合には、
その場合、綜合的な創造と異なる事実でさえ、実際に存在する事が不可能である。
第四頌
単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、
根本的な現象と呼ばれるものの中に見出されるものは、単に本人の思い過ごしでしか無い。
単純な現象が単純な現象を作り出し、其れが正に単純な現象である。
「根本的な」と云う言葉は,更にもう一度何かを生み出す働きをする。
第五頌
単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、
その様な事実が、更に根本的な現象に含まれて居るとするならば、
単純な現象が、根本的な現象でさえ生み出す事の出来ないものを生み出す事となる。
併し現実そのものが、何かを生み出すと云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。
第六頌
現実は、具体的な事実が根本的な原則に従つて生まれたものであり、
その場合には、根本的なものが生まれて来る。
根本的な現実は、単純な事実だけに依つて生まれたものではなく、
それは正に演出されたものであると云うことが、どうして有り得よう。
第七頌
この世の中は、現に生み出されつつある具体的な事実であり、
われわれの希望に従つて具体化させる事の出来るこの世の中である。
しかしこの世の中を思い通りに作り出す事が出来ない間は、
この世の中が、単なる談話の快適さを離れて、本当のこの世の中を生み出す事が難しい。
第八頌
光りは、主観的なものと客観的なものとの結合である。
従つてその姿が現れて来る。
現れて来たものは、主観的なものと客観的なものとの結合であるから、
そこに於いては、主観的なものと客観的なものとの両方が、現れて来る可能性がある。
第九頌
光の中では、暗闇は実際に存在しない。
其処に於いては、光りが正に置かれて居る。
一体何が光りを見える様にさせて居るのであろう。
恐らく明るさが、暗闇を破壊して居るからであろう。
第十頌
一体何が、現れつつ有るものの役に立つて居るので有ろう。
光りに依つて、暗闇が破壊されて居るのである。
引続き現れつつ有るものが、暗闇ではないのであるから、
その場合には、光りが眼に見えるのである。
第十一頌
其の場合には正に、具体化出来ないものが、光りに依存して居るので有るから、
やはり破壊されて居るものは、暗闇である。
この場所に唯立つて居る事でさえも、全て時間の中に位置を占めて居る事である。
現実と呼ばれる暗闇が、将来と云えども停滞して居る。
第十二頌
光りは、主観性と客観性とを共に具えて居り、
その場合には、姿を現わす。
暗闇もやはり、主観性と客観性とを具えて居る。
しかし暗闇の場合は、休息の為に横になつて寝る事を隠す為に、その事を秘密にして居る。
第十三頌
何者に依つても作られて居ない世界が、此の世の中であり、
主観的な存在の生まれて来ると云う事が、どうして有り得よう。
其処に於いては、現れたものが生まれたのであり、生んだのである。
更に何かの生まれると云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。
第十四頌
現に今始めて作り出されつつ有るもので無ければ、今始めて作り出されて居るものでは無く、
現に今作り出されつつ有るものでは無いと云う事を否定する事が、どうして不可能であろう。
その様な具体的なものが、まだ名前の付けられて居ないものを作り出す。
進行しつつ有るものもあれば、行き着いたものもあり、まだ行き着いて居ないものもある。
第十五頌
始めつつ有ると云う事は、まだ終わつて居ない事を意味する。
その場合には、此の世の中はまだ前に進んでは居ない。
その場合、何故事態が前に進まないのであろう。
はつきりと解ることは、実際に起こつた事が、口先で喋る事だけだつたと云う事である。
第十六頌
夫々のものがはつきりと存在し、
個々の事物が安定した状態で、自己の存在を具体的に示して居る。
従つて事物の存続が,実際に継続して居り、
落ち着いた状態の存続が、実際に変わる事無しに続いて行く。
第十七頌
仮に有る筈の何かが欠けて居ると,
存在が多少綜合的に見えて来る。
一定の現実が発生すれば良いと云う願望が、多少可能性があると、
その様な存在が願望されて、実在となる。
第十八頌
作り出し続ける事が、生産である。
その場合、やはり作り出そうと願望する事が、この場所である。
具体的な事物を出現させたいと願うことが、何かを作り出す事であり、
現れて来るものは、やはり多数の中の誰かである。
第十九頌
其れとは異なり、出現を強制することが目標である。
其の場合、出現は不確定である。
其処では寧ろ、存在の世界に現れて来ない事が、実際の出来事であつて、
全てが出現を強制されて居る事が、実際の事実である。
第二十頌
正に実際の出来事に即応して、効果的な生産が有り、
現実的でないものは、決してそれに付着して居ない。
実際の出来事でも無く、実際の出来事では無い事も無い様な事実が、正に其れである。
やはり正に提示されたものが、それで有る。
第二十一頌
やはり手綱でしつかりと管理された様な状態の中に於ける、効果的な生産で無いならば、
存在の中に実際に在ると、表示されて居る様な事態には成らない。
その様な事態は、正に手綱でしつかりと管理された様な状態とは成つて居ないのであるから、
現実が存在として現れて来ては居ない。
第二十二頌
立ち止まつて居ない事では無いと云う事は,存在が自分の立場の上に、しつかりと立つて居る事を意味する。
立ち止まつて居る存在は、自分の意図として立ち止まつて居る訳では無い。
立ち止まりつつある状態が、立ち止まつて居る訳では無く、
何処にも定着して居ない状態が,事実上定着して居るだけの事である。
第二十三頌
しつかりと立つて居る事は,手綱で制御されて居る状態とは違う。
存在に内在した形で,現れて来て居る。
その様な状態のものは、やはり手綱で制御された状態とは違うのであるから、
現実が存在として、現れて来る訳では無い。
第二十四頌
老化と死亡とは、宇宙の原則に含まれている。
どの様な時点でも,全ての存在の中に含まれて居る。
様々の存在は,多数の中の何かとして、自分の立場を維持して居る。
其れ等のものは、老化とか死亡とかを持つては居ない。
第二十五頌
しつかりと立つて居る状態以外の状態としては、しつかりと立つて居る状態に属して居る場合もあれば、しつかりした状態に固定されて居る場合もある。
しかしその様な状態だけに、固定されて居る訳では決してない。
どの様な態度の出現が、出現の態度の中に含まれて居ようとも、
それは主観的な態度でも無ければ、客観的な態度でもない。
第二十六頌
制御する事の出来ないものを,制御する事は出来ないし、
未だ嘗て制御出来なかつたものを、制御する事も出来ない。
其処に於いては,制御され続けて居る事が事実であり、
まだ生まれ出て居ないものを,制御する事がどうして可能であろう。
第二十七頌
しつかりと立つて居る状態に帰属して居る事は、それだけ存在して居る事を意味する。
自己管理と云うものは、他人の眼には見えて来ないものである。
特にしつかりと立つて居ない状態で無ければ、存在の状態に含まれる。
しかし特に自己管理と呼ばれるものは、外から見えるものでは無い。
第二十八頌
特に具体的に安定した状態で無ければ。安定した状態とは云えない。
何故ならば、現実は正に自己管理をするものでは無いので有るから、
また別の捉え方として、安定して居る状態そのものが、安定であると云う捉え方も有る。
正に別の異つたものが、抑制される訳では決して無いので有るから。
第二十九頌
その様な場合には、正に一切のものが、宇宙秩序そのものである。
現象が改めて現れて来る訳では無い。
存在がたつた一つのもので有る等と云う事は、実際問題として存在しないのであるから、
存在して居ない等と云う事実は、決してこの世の中には現れて来ない。
第三十頌
正に実際の出来事に従つて、存在の範囲が決まるので有るから,
自己管理と呼ばれるものは、無いものが改めて出現して来る訳ではない。
存在はたつた一つのものとして有る訳では、決して無いので有るから、
存在して居ないものが、現れて来る等と云うことも、決して有り得ない。
第三十一頌
真実で無いと云う事は、正に存在して居る事が有り得
ないので有るから、
自己管理は新たに生まれて来るものでは無い。
最高のものは、二番目のものに所属して居る筈が無いのであるから、
その場合には、一切のものがばらばらに破壊されて終う事実が見受けられる
第三十二頌
主観的な行為基準に従う事が無ければ、自己管理の状態が実在する。
自己管理の状態は、他人の行為に依つて生まれるものでは無い。
どんな形で自己管理の状態が現れて来るかと云う問題は、出現そのものの中に含まれて居る。
自己の行為に依存するものでも無ければ、他人の行為に依存するものでも無い。
第三十三頌
何かが現れて来ると云う事は、それがしつかりと立つ事であり、様々の崩壊の可能性を含んで居ると云う事でもある。
綜合的なこの世界が不完全で有ると云う事は,絶対に有り得無い。
綜合的なこの世界の準備がまだ整つて居ないとするならば、
まだ準備の出来て居ないこの世界が、将来完成されると云うことが、どうして有り得よう。
第三十四頌
例えばあの世に於いては,超自然の力とか、夢を見る事とか、
天上世界の中にあると想像されて居るガンダルヴァ市とかは、その例であり、
此の世に於いては現象、此の世に於いては安定、
此の世に於いては、言葉で説明された破壊である。
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