第五章 物質的な要素に関する検証(8頌)
第一頌
全く拘束されて居ない空間は、決して認識する事が出来ない。
何故ならば、全く拘束されて居ない空間は、事前にこの特徴を完全に離れて居るから。
特徴が何も見当たらないと云う事は、何の特徴も持たず唯眼の前に有ると云う事であろう。
その場合には、やはり事前に特徴を離れて居るのである。
第二頌
何ものからも拘束されて居ない空間が、全く存在して居ない場合には、
存在と呼ばれる概念が、何処かに綜合的に認識される筈である。
しかし存在と呼ばれる概念は、空間の中にも存在の中にも実在して居ないのであるから、
前進すると云う事実は、一体何処に認識する事が出来るのであろう。
第三頌
何の特徴も持つて居ない様な状況の中にも帰属せず、特徴を持つて居るような状況の中にも帰属せず、
前進は、何等かの共通の特徴も持つて居るとか持つて居ないとかと云う問題とは、訳が違う。
同じ特徴を持つて居るとか、同じ特徴を持つて居ないとかと云う問題を離れて、
前進すると云う事以外には、何も含まれて居ない。
第四頌
何等の特徴も現れて来ない状況の場合には、
どの様な観察をする事も不可能である。
実際には結論の出ない論争に頼る事であり、
眼の前の事象に依存する事であり、両者は両立させる事が不可能である。
第五頌
従つて、何かを観察する事が不可能であり、
何かを感受する事自体が絶対に不可能である。
特徴が有る場合も特徴が無い場合も、相互の関係は全くばらばらであり、
存在と呼ばれるものは、認識される事が全く不可能である。
第六頌
存在して居ない場合も、存在して居る場合も、
何等かの意味に於ける不存在という考え方が、先行して居るものである。
存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論は、宇宙の秩序に背く理論で有り、
存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論に、一体何の意味が有るのであろう。
第七頌
従つて存在も無ければ、不存在も無い。
特徴も無ければ、間接的な表現もない。
無限の空間や無限の空間に準ずる、
五種類の物質があり、其れ等は個々ばらばらに夫々独立して居る。
第八頌
現実そのものが、正に眼の前に見えて居る。
実在を否定する事は,正に精神的に弱い人々の所行である。
様々の事物の存在が、見えて居る訳では無い。
物事を眺める事は静かな事であり、物事を縫い合わせる事である。
全く拘束されて居ない空間は、決して認識する事が出来ない。
何故ならば、全く拘束されて居ない空間は、事前にこの特徴を完全に離れて居るから。
特徴が何も見当たらないと云う事は、何の特徴も持たず唯眼の前に有ると云う事であろう。
その場合には、やはり事前に特徴を離れて居るのである。
第二頌
何ものからも拘束されて居ない空間が、全く存在して居ない場合には、
存在と呼ばれる概念が、何処かに綜合的に認識される筈である。
しかし存在と呼ばれる概念は、空間の中にも存在の中にも実在して居ないのであるから、
前進すると云う事実は、一体何処に認識する事が出来るのであろう。
第三頌
何の特徴も持つて居ない様な状況の中にも帰属せず、特徴を持つて居るような状況の中にも帰属せず、
前進は、何等かの共通の特徴も持つて居るとか持つて居ないとかと云う問題とは、訳が違う。
同じ特徴を持つて居るとか、同じ特徴を持つて居ないとかと云う問題を離れて、
前進すると云う事以外には、何も含まれて居ない。
第四頌
何等の特徴も現れて来ない状況の場合には、
どの様な観察をする事も不可能である。
実際には結論の出ない論争に頼る事であり、
眼の前の事象に依存する事であり、両者は両立させる事が不可能である。
第五頌
従つて、何かを観察する事が不可能であり、
何かを感受する事自体が絶対に不可能である。
特徴が有る場合も特徴が無い場合も、相互の関係は全くばらばらであり、
存在と呼ばれるものは、認識される事が全く不可能である。
第六頌
存在して居ない場合も、存在して居る場合も、
何等かの意味に於ける不存在という考え方が、先行して居るものである。
存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論は、宇宙の秩序に背く理論で有り、
存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論に、一体何の意味が有るのであろう。
第七頌
従つて存在も無ければ、不存在も無い。
特徴も無ければ、間接的な表現もない。
無限の空間や無限の空間に準ずる、
五種類の物質があり、其れ等は個々ばらばらに夫々独立して居る。
第八頌
現実そのものが、正に眼の前に見えて居る。
実在を否定する事は,正に精神的に弱い人々の所行である。
様々の事物の存在が、見えて居る訳では無い。
物事を眺める事は静かな事であり、物事を縫い合わせる事である。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home