2009年3月11日水曜日

仏道讃歌(3)因果の理法

四諦の教えに関連して、釈尊が二番目に取り上げた思想が,「因果の理法である。」 四諦の教えの二番目に集諦という考え方が出て来るが,これは現にわれわれが今生きて居る外界の世界は、物質的な観点から見るならば、原子,分子という様な物質的な最小単位の寄り集まりで有ると云う捉え方である。この世の中は、物質を基礎として自然科学的な立場から考えるならば、原因があればその結果が必ずあり、その様な原因結果の関係は一分一厘の狂いも無く、この世の中を支配しているという考え方である。

しかし現在の一般社会では,必ずしもこのような原因結果の関係が、この世の中の全てを支配して居ると云う考え方が認められて居るとは思えない。けれども釈尊の説かれた教えの中では,このような因果関係の存在には、一分一厘の狂いも無い事が強調されている。

今日の人間社会においては、「正直者が馬鹿を見る」という諺もあつて、正しい人が必ず幸せになり、正しくない人は必ず不幸せになると云う考え方は、一般に認められていない。併し仏道の世界では、正しい人が幸せになり、正しくない人は決して幸せに成る事が有り得ないという主張が行われて居り、長い人生を振り返つて見ると、この世の中における実情も、やはり釈尊のお説きになつた教えが正しかつたように実観される。

そして人類の歴史の中でも実際に正しいと思われる勢力が、滅ぼされたように見える場合も、幾らも有るようにも見受けられるけれども、歴史の内情に立ち入つて考えて見ると、歴史の中の実情としては,滅びて行く筈の勢力が滅びて行つて居るのであつて、原因・結果の関係に関しては、一分一厘の狂いも無いという主張が、仏教思想の特徴である。

しかしこのような因果関係の存在を100%認める立場に立つと、人類の歴史は既に無限の過去から決まつている事に成らざるを得ない。其処で釈尊は次の段階として、行為の哲学を説かれた。