2008年4月26日土曜日

英訳「中論」の作業について

約40年程の歳月に亘つて取り組んでまいりました「中論」の英訳が漸く完成の段階に近ずき、共訳者のブラッド・ウオナーさんと協力して集中的に作業を進める段階に入つて参りましたので、ここ数ヶ月の間に亘り当方からのドーゲン・サンガ・ブログの発信を暫く中止し、皆様からのご質問のみをお受けすることにしたいと思いますので、誠に恐縮ではございますが皆様方のご協力をお願い申し上げます。私の我侭だけを申し上げて大変申し訳無い次第ではございますが、「中論」の英訳もわたくしが正法眼蔵の翻訳と並んで、生涯を掛けて完成しなければならない仕事の一つでありますので、宜しくご協力の程をお願い申しあげます。

なお皆様からのご質問に付きましては、従来通りご質問を頂き、早速ご返事を差し上げますのでご了承の程、お願い申し上げます。                         
           
                         西嶋和夫 九拝

3 Comments:

Blogger suisen said...

 「釈尊の教えは実在論である」という「中論」が面白くて面白くて最後まで理解したいと思っておりますが、最初の第一頌と第二頌でつまずいてしまいました。
 第一頌に感覚器官の刺激は実在ではないと書かれていますが、それでは自律神経のバランスした直観が実在なのですか。
 もしそうだとすれば、直観からでる行動は頭上安頭のように今あるべき一番しっくりいく行動になるとおもいますので、自律神経のバランスしてないところからの行動のなかで感じる心地よさや痛さはにせもの、実在しないものとみなすのでしょうか。
 また直観のなかの感覚器官の刺激が刺激としてそのまま存在するのか、あるいは直観のなかでは感覚器官の刺激でない別の質のものになるのか疑問です。「正法眼蔵 坐禅箴」のなかに「縁に対せずして照す」と言われているように、「見る、聞く・・・」が「照す」と別の次元の違う世界にシフトするのですか。
 お教え頂ければ幸いに存じます。

8:05 午後  
Blogger GUDO NISHIJIMA said...

suisenさんのご質問に対するお答え

貴重なご質問を有り難うございました。ご質問に対するお答えは、次のようなものになると存じます。
1)感覚器官における刺激は、感覚器官が受け入れた外界からの刺激による感覚器官そのものの興奮状態でありますから、実在と呼ぶことが出来ません。
2)自律神経のバランスした状態から生まれる現在の瞬間における行いが実在であると云えます。
3)自律神経がバランスしていないと、交感神経が強過ぎて思考の止まらない状態が生まれたり、副交感神経が強過ぎて感覚が敏感過ぎる状態となりますから、本当の行いは実行出来ない状態となります。
4)直観は自律神経がバランスしている時にのみ働く機能でありますから、思考作用が働いたり感覚器官が刺激を受け入れたりしている段階では、働く余地がありません。
5)正法眼蔵坐禅箴の中の「事に触れずして知り、縁に対せずして照らす」という言葉は、「客観的な事物からの刺激を受けている訳でもないのに事物の実体が判り、環境と直接に対面していないにも拘らず、全体的な事実を直観的に知る事が出来る」という意味で、われわれが坐禅をする事により、自律神経がバランスし,直観的な能力が発輝される状態を意味しております。
6)したがつて別の次元の世界に移ることでは決してなく、われわれの日常生活における「行い」の瞬間が、思考の世界や感覚の世界と如何に様子が違うかを描写した場面ということになります。
                       西嶋 和夫

9:03 午前  
Blogger suisen said...

西嶋老師へ
 簡潔なお答えに深く感謝申し上げます。今回のお答えなくしては仏教を理解することはできなかったと思います。これからゆっくり先生のお答えをいままで曖昧だったところにあてはめて考え直してみたいと存じます。

11:04 午前  

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