ドーゲン・サンガにおける人間関係
人間関係という言葉は私の記憶では、第二次世界大戦以後に急に日本で使い始められた言葉のように記憶しているけれども、現在では一般にその意味がはつきり しているように思われるので、人間社会の中で人間同士が交渉を持つ際の、行動の仕方という意味で使うこととする。したがつてドーゲン・サンガの中において も、ドーゲン・サンガの会員同士の間や対社会との接渉においても、当然配慮しなければならない人間同士の関係として考えて見たい。
この問題に関しては昔から儒教の道徳あり,日本古来の道徳あり、佛教道徳あり、欧米の道徳ありと云つた形で、具体的な多数の実例があるのであるが、その反面あまりにも複雑過ぎて結論が多岐に分かれ、実際問題として統一的な結論を得る事が非常に難しい。
し かし私は若い時から、正法眼蔵、第45の「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさつたししょうぼう)と云う章の教えに従つて生きて来た。勿論仏道の世界は、名誉と利 得とに支配された世俗の世界とは別の世界であるから、世俗の世界から見た場合、私の生涯が広範な世俗の世界に於ける価値観と対比して、何人にも満足を与え ることの出来るような結果であつたか否かは断定する事が出来ない。しかし私は道元禅師の示された真実が世界全体を支配する真実と確信して、人生を生きて来た極めて愚直な人間で あつたから、そのような生き方について何らの後悔も持つていない。
では正法眼蔵の菩提薩埵四摂法においてどのような教えが説かれているかというと、それは次
の四つすなわち、1)布施、2)愛語、3)利行、4)同事、の四つの項目であるが、用語が可成り古い時代の言葉が使われて居る処から、その解説を必要とすると思う。
1)布施(ふせ)
布 施に関して道元禅師は、欲張らない事であると云われている。そして欲張らないということは、自分が大切にしているものを無理に他人に与えよということを意 味している訳ではない。しかし自分にとつてそう必要でないものを、他の人が欲しがつている場合には、惜しみなく与えよという意味である。それと同時に自分 自身の利益を考えて、その利益の為の見返りとして、他人に贈りものを与えたりしないということでもある。そして道元禅師は、「全世界を支配するような権力 者といえども、他人に対して正しい教えを与える場合には、それを惜しんだり何らかの他の目的の為に与えたりする事をしない」と云われており、したがつてた つた一つの言葉、或はたつた一つの詩でもよいから与えるべきであると云われている。そして自分自身が生活の為に働く事も布施であり、産業に従事することも 布施であると云われている。したがつて自分自身の為に働くことも布施であり、家族の為に働くことも布施であると云われている。
2)愛語(あいご)
愛 語とは愛情のある言葉という意味であり、誰に対しても愛情のある言葉を掛けるべきであると云われている。また別の言葉で表現すれば、乱暴な言葉や悪い言葉 を口にしないと云うことである。したがつて若しも佛教徒が他人に対して乱暴な言葉や悪い言葉を述べた場合には、その人は完全に佛教徒としての実質を失つて 居ると判断して差し支えない。道元禅師は憎しみを持つた敵を降参させたり、優れた人間同士が和解出来るのも、愛情のある言葉が基本であると云われており、 愛情のある言葉が、宇宙を逆転させるだけの力を持つて居る事を勉強するべきであると云われている。
3)利行(りぎょう)
利行とは身分の高 い立場の人に対しても、身分の低い立場の人に対しても、相手の人に対して、その人の為に役立つような仕事をしてやるべきであるという趣旨である。そして本 当の宇宙の見えていない人は、他人の利益を優先させると、自分自身の利益が犠牲になつてしまうと考えて仕舞うけれども、実情はそうではない。中国の役人が 植民地の長官であつた場合、植民地の人の来客があつた場合、入浴中であろうと食事中であろうとそれを中断して、面接に応じた例があつたと云われて居る。そ れは唯々人の為に役立ちたいという努力をした例である。したがつて敵に対しても味方に対しても同じように利益を与えるべきであると、道元禅師は云われて居る。自分に 対しても他人に対しても同じように、利益を与えるべきであるという趣旨である。ただ一途に人類の愚劣を救うのでなければ、地球上に平和は来ないと云う意味であ る。
4)同事(どうじ)
道元禅師は同事という言葉は、自分自身とも食い違うことがなく、他人とも食い違うことがないという意味である云われており、人間 の世界とも同調し、それ以外の世界とも同調することに依つて、主観的な世界と客観的な世界とが一つに重なつた、現実の世界が現れて来ると云つておられる。 外界の世界を完全に自分自身の世界と一致させた場合に、自分自身を完全に外界の世界と一致させる事が出来るという基本的な理論もあるかも知れないとも云われており、海は流 れ込んで来る水を嫌わないし、水は海に流れ込んで行くことを厭がらないから、海があり水があるのである。山は山を嫌わないから、山が高く聳えているの である。したがつて全ての人々が、優しい態度や優しい表情で、一切のものに立ち向かうべきであるという趣旨を述べておられる。
此のように布施も愛語も利行も同 事も、道元禅師は極めて理論的なそして具体的な立場から観察し、しかもそれだけに留まらず極めて実践的な現在の瞬間における実情として説かれており、それ が正にわれわれが現に今住んでいる現実世界の真の姿であるとして捉えておられるから、この正法眼蔵における菩提薩埵四摂法は、われわれが日常生活の中で実際に適用 した場合、驚くような効果を発輝する。したがつてそのような事情から、釈尊の教えは何のような地域においても何のような時代においても、人間関係の原則として的 確な効用を発輝する事実がある事を確認し、ドーゲン・サンガの人間関係における基準とすべきであると思う。このように考えて来ると、仏道が説く倫理道徳は、他の哲学や宗教や道徳の倫理道徳と非常に違うという印象を与えるけれども、それは普通の倫理道徳が、観念論や唯物論を基準にした理論に基ずいているのに対して、佛道の場合は釈尊の説かれた教えが、観念論や唯物論とは異なる実在論を基準としていることから来る結果であつて、21世紀に到来するであろうと思われる佛教的実在論が,今日の倫理道徳と比較して、非常に大きな思想的且つ実質的な変動を齎すように思われる。
この問題に関しては昔から儒教の道徳あり,日本古来の道徳あり、佛教道徳あり、欧米の道徳ありと云つた形で、具体的な多数の実例があるのであるが、その反面あまりにも複雑過ぎて結論が多岐に分かれ、実際問題として統一的な結論を得る事が非常に難しい。
し かし私は若い時から、正法眼蔵、第45の「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさつたししょうぼう)と云う章の教えに従つて生きて来た。勿論仏道の世界は、名誉と利 得とに支配された世俗の世界とは別の世界であるから、世俗の世界から見た場合、私の生涯が広範な世俗の世界に於ける価値観と対比して、何人にも満足を与え ることの出来るような結果であつたか否かは断定する事が出来ない。しかし私は道元禅師の示された真実が世界全体を支配する真実と確信して、人生を生きて来た極めて愚直な人間で あつたから、そのような生き方について何らの後悔も持つていない。
では正法眼蔵の菩提薩埵四摂法においてどのような教えが説かれているかというと、それは次
の四つすなわち、1)布施、2)愛語、3)利行、4)同事、の四つの項目であるが、用語が可成り古い時代の言葉が使われて居る処から、その解説を必要とすると思う。
1)布施(ふせ)
布 施に関して道元禅師は、欲張らない事であると云われている。そして欲張らないということは、自分が大切にしているものを無理に他人に与えよということを意 味している訳ではない。しかし自分にとつてそう必要でないものを、他の人が欲しがつている場合には、惜しみなく与えよという意味である。それと同時に自分 自身の利益を考えて、その利益の為の見返りとして、他人に贈りものを与えたりしないということでもある。そして道元禅師は、「全世界を支配するような権力 者といえども、他人に対して正しい教えを与える場合には、それを惜しんだり何らかの他の目的の為に与えたりする事をしない」と云われており、したがつてた つた一つの言葉、或はたつた一つの詩でもよいから与えるべきであると云われている。そして自分自身が生活の為に働く事も布施であり、産業に従事することも 布施であると云われている。したがつて自分自身の為に働くことも布施であり、家族の為に働くことも布施であると云われている。
2)愛語(あいご)
愛 語とは愛情のある言葉という意味であり、誰に対しても愛情のある言葉を掛けるべきであると云われている。また別の言葉で表現すれば、乱暴な言葉や悪い言葉 を口にしないと云うことである。したがつて若しも佛教徒が他人に対して乱暴な言葉や悪い言葉を述べた場合には、その人は完全に佛教徒としての実質を失つて 居ると判断して差し支えない。道元禅師は憎しみを持つた敵を降参させたり、優れた人間同士が和解出来るのも、愛情のある言葉が基本であると云われており、 愛情のある言葉が、宇宙を逆転させるだけの力を持つて居る事を勉強するべきであると云われている。
3)利行(りぎょう)
利行とは身分の高 い立場の人に対しても、身分の低い立場の人に対しても、相手の人に対して、その人の為に役立つような仕事をしてやるべきであるという趣旨である。そして本 当の宇宙の見えていない人は、他人の利益を優先させると、自分自身の利益が犠牲になつてしまうと考えて仕舞うけれども、実情はそうではない。中国の役人が 植民地の長官であつた場合、植民地の人の来客があつた場合、入浴中であろうと食事中であろうとそれを中断して、面接に応じた例があつたと云われて居る。そ れは唯々人の為に役立ちたいという努力をした例である。したがつて敵に対しても味方に対しても同じように利益を与えるべきであると、道元禅師は云われて居る。自分に 対しても他人に対しても同じように、利益を与えるべきであるという趣旨である。ただ一途に人類の愚劣を救うのでなければ、地球上に平和は来ないと云う意味であ る。
4)同事(どうじ)
道元禅師は同事という言葉は、自分自身とも食い違うことがなく、他人とも食い違うことがないという意味である云われており、人間 の世界とも同調し、それ以外の世界とも同調することに依つて、主観的な世界と客観的な世界とが一つに重なつた、現実の世界が現れて来ると云つておられる。 外界の世界を完全に自分自身の世界と一致させた場合に、自分自身を完全に外界の世界と一致させる事が出来るという基本的な理論もあるかも知れないとも云われており、海は流 れ込んで来る水を嫌わないし、水は海に流れ込んで行くことを厭がらないから、海があり水があるのである。山は山を嫌わないから、山が高く聳えているの である。したがつて全ての人々が、優しい態度や優しい表情で、一切のものに立ち向かうべきであるという趣旨を述べておられる。
此のように布施も愛語も利行も同 事も、道元禅師は極めて理論的なそして具体的な立場から観察し、しかもそれだけに留まらず極めて実践的な現在の瞬間における実情として説かれており、それ が正にわれわれが現に今住んでいる現実世界の真の姿であるとして捉えておられるから、この正法眼蔵における菩提薩埵四摂法は、われわれが日常生活の中で実際に適用 した場合、驚くような効果を発輝する。したがつてそのような事情から、釈尊の教えは何のような地域においても何のような時代においても、人間関係の原則として的 確な効用を発輝する事実がある事を確認し、ドーゲン・サンガの人間関係における基準とすべきであると思う。このように考えて来ると、仏道が説く倫理道徳は、他の哲学や宗教や道徳の倫理道徳と非常に違うという印象を与えるけれども、それは普通の倫理道徳が、観念論や唯物論を基準にした理論に基ずいているのに対して、佛道の場合は釈尊の説かれた教えが、観念論や唯物論とは異なる実在論を基準としていることから来る結果であつて、21世紀に到来するであろうと思われる佛教的実在論が,今日の倫理道徳と比較して、非常に大きな思想的且つ実質的な変動を齎すように思われる。
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