2007年3月1日木曜日

第一の「悟り」:坐禅(3)実践的な側面

坐禅そのものの具体的な説明

(1)場所
 
坐禅をする場所についても、道元禅師は、普勧坐禅儀や正法眼蔵の坐禅儀等で具体的に記述されている。そこでそれらの大綱を列記してみると、次のような内容になると思う。
1)坐禅の場所は、屋内であることが望ましい。仏道に類似した流派の中には、戸外で坐禅をする事を認める例もあるようであるが、普勧坐禅儀では、「静室よろしく」と規定されており、戸外での坐禅は認められていない。
2)坐禅の場所は、昼も夜も明るくなければならない。最近の諸寺院では、寧ろ薄暗い部屋で坐禅をすることが一般であるけれども、これは誤りである。
3)坐禅の場所は、冬は暖かく夏は涼しくなければならない。坐禅を一種の苦行のように考えて、夏は暑く冬は寒いような環境を誇張する考え方は、甚だしい誤解である。
4)坐禅の場所は、静かである事が望ましい。しかしあまり神経質に考える必要はない。
5)坐禅の場所は、必ずしも広い必要はない。道元禅師も人間の身体が、入りさえすれば良いと云われている。
6)坐禅の場所は、必ずしも山村がよくて、都会は不向きであるという事もない。

(2)お袈裟

正法眼蔵(93)道心の巻に、「またつねに袈裟をかけて、坐禅すべし」という記述があるけれども、これは、坐禅をする時には、単に僧侶や尼僧だけではなく、在家の男子や在家の女子もお袈裟を掛けて坐禅をするべきであるという意味に読みとれる。何故かというと、この道心の巻きは、使われている言葉が極めて平易であり、文章も易しい処から、単に僧侶や尼僧だけに説いた巻きではなく、在家の男子、在家の女子に対しても説かれた巻と考えられるからである。
したがつて私は、この道元禅師のご指示にしたがつて、ドーゲン・サンガでは出来る限り全員が、坐禅をする時には出家の人も在家の人も、お袈裟を着用する事を実行することが出来るようにしたいと思う。しかしそのような慣習を具体的に実現するに当つては、次のような難しい問題を解決して行かなければならない。
 1)現在お袈裟を一般の法衣店で買おうとすると意外に高いものである。例えば現在日本の法衣店でお袈裟を買おうとすると、一番安いものでも五万圓から十万圓は掛かる。したがつてそのように高価なお袈裟を一般に普及させようとしても、実際問題としてそれは出来ない。
 2)したがつて、一般の人々が自由に買えるお袈裟を手に入れる事が出来る為には、誰か個人なり会社なりが、お袈裟の作り方を工夫して安いお袈裟を作り、一般に販売する必要がある。
 3)比較的安いお袈裟を作ることは、技術的には決して不可能ではない。例えば生地に関しても、必ずしも絹を使う必要がある訳ではないから、比較的に安い科学繊維を使う。作り方についても手縫いにこだわらず、ミシン縫いとする。大きさについても何等級かの段階を定め、誰でも自分の体格に合わせた大きさの既製品を買えるようにする。色彩は現在最も一般的な、例えば木蘭地一色に統一する。
 4)しかし理論的には、上記のような工夫が可能であるとしても、このような個人なり会社なりの出現を待つ為には、少なくとも数年は覚悟しなければならないであろうから、私の生存中に具体化が可能であるかどうかは、大変疑問である。
 


(3)坐蒲(ざふ)

坐禅をするに当つては、写真に写つているような丸くて黒い坐蒲を使う。普勧坐禅儀の中では、蒲団という言葉が使われているけれども、団という字は本来「丸い」という意味の字であるから、今日一般に使われている布団という長方形の寝具も、この蒲団という言葉から出た言葉ではなかろうかと考えている。この道元禅師の時代に使われた蒲団という言葉は、今日では一般に、坐蒲と呼ばれている。
 1)坐蒲は、直径36センチ程の丸いクツションである。中にはカポツクと呼ばれる植物繊維を充分に詰め、人間の体重を載せて腰を下ろしても、15センチから20センチ程度の高さが維持できるようにしてある。中に例えば木綿のいうな繊維を詰めると木綿が固く固まり、弾力性を失つて長い間には、使う事が出来なくなる恐れがある。
 2)若しも坐蒲が手に入らない場合には、毛布等を何回も畳み、15センチから20センチ程度の高さにして、充分坐蒲の代役を勤めさせる事ができる。あるいは普通の座布団を3〜4枚重ね、その角を使つて坐蒲の代用とする事も出来る。
 3)坐蒲を作る布は、滑り難い材料を使う必要がある。高価なものである必要はないけれども、丈夫でしかも縫い易いものである必要がある。
 4)畳敷きの部屋を使う場合でも個々に座布団を使えば、足の痛むのを和らげることが出来るし、板敷きの部屋の場合は、足が痛くない程度のカーペツトその他が必要であり、重ねて座布団を使用することも、足の痛みを和らげる点で役に立つ。
 5)僧侶や尼僧でない限り、お袈裟を掛けて居れば充分であり、お袈裟を調達するまでの期間は、平服を使つて坐禅をしても一向に差し支えなく、絡子(らくす)を持つて居る人は、絡子を使えばよい。
 6)仏道の一部では坐蒲の代わりに、小さな長方形の座布団に似た形のものを使用し、坐禅をしている例があるけれども、その場合には腰が低すぎる為に、腰骨を垂直に立てる事が出来ず、自律神経をバランスさせる事が出来ないのではないかと心配している。



(4)坐禅の姿勢

坐禅において一番大切な問題は、坐禅そのものに於ける姿勢である。何故かと云うと, もしもわれわれが折角坐禅をしておりながら、伝統的な正しい姿勢をとつていないと、坐禅における本当の狙いである自律神経のバランスが具体化せず、したがつて坐禅の実体である自受用三昧が実現しない。自受用三昧とは自受という言葉によつて表わされている副交感神経の働きと、(自)用という言葉によつて表わされている交感神経の働きとが、同じ強さになつて相殺し合うため、思考が意識されず、感覚が意識されない状態をいう。思考が意識されず感覚が意識されない状態なぞと云う奇妙な状態が、人間の意識作用の中に果たしてあり得るかという疑問も起こり得るけれども、例えば優れた百メートル競走の走者が、百メートルを全力疾走している際には、意識はむしろ明々白々として存在しているけれども、思考を行う余地や感受を行う機会は、極めて少ないと云う事が云えるであろう。このように人間の行いの中には、思考の世界も殆ど消え、感受の世界も殆ど消えて、行いだけが意識される状態があるのであつて、このように人間の自律神経が完全にバランスしたために、思考と感受の働きの殆ど全てが消滅して、純粋な行為だけの残つた状態が、三昧と呼ばれる境地である。
坐禅に於ける正しい姿勢の要点は、大略次のようなものである。
 1)先ず腰椎を正しく立てる。沢木興道老師は腰椎が前方に向かつて反り返る程、腰椎を強く立てる事を推奨された。
 2)垂直に立つた腰椎の上に、背骨を出来るだけ垂直に立てる。背骨は生得的に後ろに向かつて湾曲しているけれども、可能な限り垂直に立てるという意味である。
 3)背骨の上に頚の骨を載せる。頚の骨も出来るだけ垂直に立てる為に、顎を引き加減にして、頚の背面を出来るだけ伸ばす。沢木老師は「頭の頂点のやや後方に綱を取り付け、天井に向かつて垂直に引き上げる積もりで坐る」ように指示された。



(5)足の組み方

足の組み方は二通りある。一つは半迦夫坐(はんかふざ)と呼ばれ、他の一つは結迦夫坐(けつかふざ)と呼ばれる。
半迦夫坐の場合は、片方の足を床の上に倒し、踵を出来るだけ坐蒲に近付けた上、その上に反対側の足を、甲を下にして載せる。

(半迦夫坐)


(結迦夫坐を組む過程)


(結迦夫坐)






結迦夫坐とは、足を半迦夫坐の形に組んだ上で、更に下になつている足を反対側の足の上に載せる坐り方である。文章で説明すると、非常に難しい坐り方のように受け取られ易いけれども、実際に坐ることに慣れて来ると、決してそう難しい坐り方ではない。しかし足が慣れて来るまでは、可成り痛みを感じる坐り方であるから、徐々に習慣付ける必要がある。したがつて最初から結迦夫坐に固執する必要はなく、最初は半迦夫坐の形で坐禅を実行し、足が苦痛を感じる時には左右を入れ替えことによつて、徐々に両方の足を慣らして行くことが必要である。慣れる迄は人によつては、かなり痛みを感じる坐り方であるから、人それぞれの事情にしたがつて、徐々に進めて行く必要がある。
釈尊も初心者の場合、足の痛く成る事を予想された処から、結迦夫坐と並んで半迦夫坐を正式の坐り方として、定められたと想像される。現に普勧坐禅儀の中で道元禅師は、結迦夫坐の場合には「左の足を右の腿の上に安ず」という表現をとつておられるけれども、半迦夫坐の場合には、[但だ左の足を以つて右の腿を圧すなり」と書かれて居り、初心者の場合には長年の修行者の場合と比較して、稍緩やかであつて差し支えないという慈悲心が、隠されているように思われる。
道元禅師は普勧坐禅儀の中で、結迦夫坐の場合も半迦夫坐の場合も、左足が右足の腿の上に載る例だけを示しておられる処から、嘗て、道元禅師は普勧坐禅儀の中で規定されている坐り方だけを主張されたという理解の仕方があつたけれども、沢木老師は「道元禅師が単に一例を示されたまで」と云われ、左右の転換を自由に許す解釈を取つておられた。そしてその左右の転換を認める解釈の方が、実際の実情から考えて、正しいように思う。
足を組み終わつたならば、衣類を軽く足の上に掛けて、様子を整える。

(6)手の組み方

普勧坐禅儀の中では、右の手を左の足の上に載せ,左の掌を右の掌の上に載せ、両方の拇指が向かい合つて互いに支えると書かいてある。つまり下の写真のような組み方をする。写真では左の手が右の手の上になつているけれども、右の足が左の足の上に載つている場合には、手の方もそれと同じ順序にする。



(7)坐禅の内容

坐禅に関連しては、坐禅の内容がどのようなものであるかという問題が、非常に大切である。



 1)物事を考える事ではない。坐禅の内容を表わす言葉として、英語ではmeditation(瞑想)と呼ばれ、何か物事を考えることのように誤解される恐れがあるけれども、坐禅の内容は決してそうでは無く、むしろ考えない事である。日本の国においても、嘗て師匠が公案と呼ばれる課題を弟子に与えて、弟子が坐禅をしている間にその問題を考えるという習慣があつたけれど、これは坐禅の内容を正しく理解しいなかつた時代の習慣であつて、今日ではこのような誤解は無くなつているものと思われる。
 2)坐禅は我慢比べではない。精神的な宗教に於ける場合の特徴としては、食事を切り詰めたり睡眠を少なくして、坐禅は一種の苦行であると考えている例もあるけれども、坐禅は釈尊が人一倍激しい苦行を体験され、釈尊ご自身の経験を通して。苦行が真実の発見の為には役に立たないことを宣言され、その結果取り組まれた修行法であるから、坐禅の目的が苦行である可能性は全くない。
 3)では坐禅とは何かと云うならば、正しい姿勢で唯坐つていることである。坐禅は何かを考えている事でもなければ、美しい花を見るような形で、外界からの刺激を受け入れている事でもない。坐禅は行いそのものであつて、唯姿勢を正して坐つている事である。今日の世界における中心的なユウロ・アメリカンの文化は、古代ギリシャ・ローマの時代から、人間活動の中心的な内容として、頭の中で考えられて来た思考という物事を考える働きと、感覚と呼ばれる外界からの刺激を感受する働きとを中心として発達し来た。しかし人類の中で始めて佛教思想を発見された釈尊は、思考は単なる脳細胞の働きであり、感覚は単なる感覚器官に於ける外界からの刺激であるに過ぎない事に気付き、われわれはそのような架空の思考や感覚器官における刺激が実在ではないこと基礎にして、もつと信頼性の高い現実の事実を、われわれが人生を考える上での基礎にすべきであることを主張した。
 4)したがつて坐禅に関連する究極の事実は、現在の瞬間に於いて現に坐わつていると云う事実である。それは頭の中に描いた想念とか感覚的な刺激とかという抽象的或は感覚的な頭の中の映像ではなく、現に自分自身が坐つているという現在の瞬間に於ける事実である。そしてそのような現実の事実が此の世の中の実体である。それは永遠の今であり、掛け替えのない実体である。そのような現実の瞬間の中に、自分自身があり宇宙がある。自分自身の行いと宇宙とは同一物の裏表であり、そのような言葉で表現する事の出来ない宇宙は、神と呼ばれても不思議では無いと思う。私は神は宇宙であり、宇宙は神であるという考え方を信じている。神は人格神ではない。宇宙そのものである。

(8)坐禅の終了

坐禅を終わる時は、鐘が一つ打たれる。鐘の音を聞いたならば、合掌してから足を静かにほどく。そして静かに立ち上がる。慌てたり乱暴であつたりしてはならない。



立ち上がつたならば、使つた坐蒲が使つた為につぶれているのを、坐蒲を堅に立て、上から握り拳で押して形を整える。坐蒲を坐つた席の真ん中に置き、坐蒲に向つて合掌しながら頭を下げる。その後右回りで180度向きを変え、座席を背にしてもう一度合掌して頭を下げる。二度目の合掌は同じ部屋で坐つていた全員に対する挨拶であるが、たつた一人で坐つていた場合は、宇宙に対する挨拶と考えればよい。以上が坐禅に関する具体的な説明である。