2006年11月20日月曜日

学道用心集(10)第九 道(どう)に向って修行すべき事

右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。
夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。
其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。
佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。
其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。
所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。
佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。
道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。
是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。
是れ則ち道に向うの風流なり。
而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強(し)いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。
錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。
父を捨(す)て逃逝(とうぜい)し、宝を捨(す)てて令并(れいへい)す。
長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。
夫(そ)れ、學道の者は、道(どう)に礙(さ)えらるることを求む。
道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。
佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。
佛道を信ずる者は、須(すべか)らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑(めいわく)せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減(ぞうげん)なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。
是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。
其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断(ざだん)して、知解(ちげ)の路(みち)に向(むか)わざらしむるなり。
是れ乃ち初心(しょしん)を誘引(ゆういん)するの方便(ほうべん)なり。
其の後(のち)、身心を脱落(だつらく)し、迷悟を放下(ほうげ)す、第二の様子なり。
大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。
若し正(まさ)しく道に在りと信ぜば、自然(じねん)に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。
人試みに意根(いこん)を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。

(現代語訳)

上記の表題の意味は、仏道を勉強している一人前の人物は、先ず第一に真実に向つている自分の態度が、正しいか正しくないかという事を知る必要がある。
一般的に云つて、自分自身を自由自在に管理することの出来るようになつた釈尊は、それ以前に菩提樹の下で坐禅をされ、明けの明星が東の空に輝いているのを見る機会を持つた時に、思いがけなく急にこの世における最高の真実を実観された。
その時に実観された真実の内容は、理論的に佛教を勉強している僧侶や、環境を大切にして佛教を勉強をしている僧侶達が達成できる内容とは、全く違つている。
そして真実を自分自身で実観することの出来た人々が、真実を得た人々に伝えて、今迄途絶える事の無かつたものである。
したがつて、その実観を得た人は、どうして真実を得た人でないという事が云えよう。
此処で云つている、真実に向かうということの意味は,釈尊が説かれた教えを完全に角の角迄知り尽くす事であり、釈尊が説かれた教え全体の様子を、はつきりと理解することである。
釈尊が説かれた教えの実体は,人々それぞれの足の踵の下にある大地に根ざしている。真実そのものに自己拘束されて,自分自身の現在地点において、明瞭に理解出来る処であり、真実を知つたという事実そのものに支えられて、本人自身が完成されているのである。
此のような事情から,仮に完成された形での理解を誇示している場合でも、多少何か欠けた真実の把握に落ち着いたように見える事情があるのであろうか。これが正に真実に近ずく優雅な態度である。
しかし現代においては、真実を勉強している人々が、まだ真実が分かつた分かつていないの区別もはつきりしていない為に、無理にその結果が眼に見えて来ることを好む。誰がこの誤りを犯していないであろうか。
父を捨てて自分の国から逃げ、本当に価値のあるものを捨てて、自分の国以外の土地を彷徨つている。自分自身が大金持ちの独りつ子であるにも拘らず、長い期間に亘つて外国人として、賎しい階級に属している。しかしそれには正に当然の理由がある。
一般的に云つて、真実を勉強する人々は、真実によつて自己拘束されることを求めており、真実によつて自己拘束されるということは、真実を把握した後に、真実を把握したという事実を忘れてしまう事である。
仏道の修行をしようとする人は、先ず最初に仏道を信ずる必要がある。
仏道を信ずる人は、先ず自分自身が本来真実の中に居て、迷つても居なければ、間違つた考えも持つていない、正邪が反対になつて居る事も無ければ、過不足も無く、過失や誤りもないということを信じるべきである。
このような信念を持ち、このような真実を明瞭に理解し、それらの基準に従つてこれを実行する。それが正に真実を勉強する為の基本である。
そしてその実行方法の基準は、意識の基礎的な働きをバランスした状況に依つて一時中断し、われわれの心や身体の働きが、知覚や思考の領域に入つて行かないようにする事である。これが正に初心者を誘導する場合のやり方である。
其の後で,身体や心に関する意識から抜け出し、迷いも悟りも投げ捨ててしまうことが、二番目の様子である。
しかし一般的に云つて、自分自身が本来、釈尊の教えの真唯中に居るのであるという事を、信じて居る人を見付けることが一番難しいのである。
もしも誰かが、自分は正に現実の中に生きて居るのであるという事実を、信じる事が出来るようになると、偉大な真実の中を自由自在に行き来する事が自然に出来るようになり、迷いや悟りの起こる原因が、分かつて来るであろう。
人は誰でも試しに坐禅の修行をし、自律神経をバランスさせ、交感神経と副交感神経とをバランスさせて、意識の根源をプラス・マイナス・ゼロの状態にして見ると良い。十人の内八、九人迄は、即座に真実に出会うことが出来るであろう。

(解説)

この章に於いては、先ず道元禅師は、仏道を勉強するに当つて一番大切な事は、自分自身の仏道修行が正しい方向に進んでいるか、間違つた方向に進んでいるかを知ることであると述べておられる。元来仏道は徹頭徹尾合理的な哲学であり、隅から隅迄疑問の余地のない徹底した真実である。そのような真実が偉大な天才である釈尊によつて発見され、代々の祖師方によつて継承され、今日迄続いて来た。したがつてわれわれは、釈尊の教えを絶対の真実として取り扱う必要があり、われわれの努力が、そのような世界でも唯一の真実に向つて進んでいるか否かを知る事が、最も重要であることが先ず述べられている。
そしてそのような釈尊の教えが何処に有るかと云うならば、われわれの足下にあると云われている。われわれの足下とは大地の事である。釈尊の教えは人間が頭の中で考えた架空の夢物語ではない。それと同時にわれわれが感覚器官を通じて捉えた単なる物質世界でもない。それはわれわれが其の中に現に生きて居る現実世界であり、われわれ自身の人生における舞台である。そこでわれわれ人間はその現実の世界を、唯一の世界として捉え、釈尊はそのような基本的な体験を基礎にして、現実主義の教えを説かれたのである。
しかし人間は何千年にも亘つて、頭の中で考え出した観念論や、感覚的な刺激を基礎とした唯物論に迷わされて来た処から、本当に自分達が信頼しなければならない現実の世界を忘れて、本来自分達が住んでも居ないような観念の世界や物質だけの世界を基準にして、問題を考えて来た処から、本当に自分が住まなければならない現実の世界を忘れて、全く架空の世界に住んでいるような錯覚に陥りながら、何千年も過ごして来てしまつた。
したがつてわれわれ人類は、本来の真実である現実主義の哲学に目覚めるために、釈尊がわれわれ人類に勧められた坐禅の修行を通じて、自律神経をバランスさせ、世界最終の哲学に目覚めることが、必要であるという趣旨が述べられている。