2006年10月25日水曜日

学道用心集(6)第五 参禅学道は正師を求む可き事 

右、古人云く、発心(ほつしん)正しからざれば、萬行(ばんぎょう)空(むな)しく施(ほどこ)すと。誠なる哉(かな)この言(げん)。
行道(ぎょうどう)は導師の正(しょう)と邪とに依る可(べ)きものか。機は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。
縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。
縦(たと)え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功(みょうこう)忽ち現ず。
師の正邪(しょうじゃ)に随って、悟(さとり)の真偽あり。之を以て暁(さと)る可(べ)し。
但し我が国昔より正師(しょうし)未だ在らず。
何を以て之が然るを知るや。
言(ごん)を見て察するなり。
流れを酌んで源を討(たず)ぬるが如し。
我が朝古来の諸師、書籍(しょじゃく)を篇集(へんじゅう)し、弟子(でし)に訓(おし)え人天(にんでん)に施(ほどこ)す、
其の言(ごん)是れ青く、其の語未だ熟せず、未だ学地の頂(いただ)きに到らず、何ぞ證階の辺(ほと)りに及ばん。
只だ文言(もんごん)を傳えて、名字を誦せしむ。日夜他の寶(たから)を数えて、自(みず)から半銭の分(ぶん)なし。
古(いにしえ)の責(せめ)之(ここ)に在り。
或は人をして心外(しんげ)の正覚(しょうかく)を求め教(し)め、或いは人をして他土(たど)の往生(おうじょう)を願わ教(し)む。
惑乱此(ここ)より起り、邪念此(これ)を職(もと)とす。
縱(たと)え良薬を与うと雖も、銷(しょう)する方を教えずんば、病と作(な)ること、毒を服するよりも甚だし。
我が朝(ちょう)、古(いにしえ)より良薬を与うる人なきが如く、薬毒を銷(しょう)するの師未だ在(あ)らず。
是(ここ)を以て、生病除き難く、老死何ぞ免(まぬ)がれん。
皆これ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ざるなり、
所以(ゆえ)は何(いか)ん。人の師たる者、人をして本(もと)を捨て、末を逐(お)わ教(し)むるの然ら令(し)むるなり。
自解(じげ)未だ立(りゆう)せざる以前、偏(ひと)えに己我(こが)の心を専(もつぱ)らにし、
濫(みだり)りに他人をして邪境に堕(お)つることを招か(教)しむ。哀れむ可(べ)し、人の師たる者すら、未だ是れ邪惑なることを知らず、弟子何(なん)為(す)れぞ是非を覚了せんや。
悲(かな)しむ可(べ)し辺鄙(へんぴ)の小邦、仏法未だ弘通(ぐつう)せず、正師(しょうし)未だ出世せず。
若し無上の仏道を学ばんと欲せば、遙(はる)かに宋土の知識を訪(とむら)うべし。
遥かに心外の活路を顧(かえり)みるべし。正師を得ずんば、学ばざるに如(し)かず。
夫れ正師とは、年老耆宿(ねんろうぎしゅく)を問わず、唯だ正法を明めて、正師の印證を得るものなり。
文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気(しいき)あり、我見(我見)に拘(かか)わらず、情識に滞(とどこ)おらず、行解相応(ぎょうげそうおう)する、是れ乃ち正師なり。

(現代語訳)

上記の表題の意味は、過去の祖師の云われた言葉に、真理を知りたいという心を起こした時の態度が正しくないと、さまざまの修行に激しい努力をしても、結局何の役にも立たない事に努力した事になつてしまうと。
この言葉に対しては、心から真実であるという事を云うことが出来る。仏道修行をする場合の成果は、結局の処、指導をする師匠が正しいか間違つているかによつて、決まるものであるらしい。
弟子の素質は、材料が良いか悪いかに例えることが出来るけれども、師匠はその材料を使う芸術家の立場に似た処がある。
仮に材料が良くても、良い芸術家に恵まれなければ、素晴らしい作品を作り出す事が出来ない。
たとえ曲がりくねつた木を材料に使つた場合でも、若しも優れた腕前の芸術家に出合つた場合には、素晴らしい成果が忽ち現れる。
仏道の場合でも、師匠が正しいか間違つているかによつて、得られた結論が本当か偽物かの区別がある。
その事については、芸術作品の成果が芸術家の良否に左右される事を通して、知るべきである。
然し乍ら日本の国に於いては、正しい師匠がまだ出ていない。
その事がどういう理由から分かるのであろうか。
それぞれの師匠が述べた言葉を読んで、推察するのである。
川下の水を汲んで、川上の水の様子を調べるやり方に似ている。
わが国においても昔から、沢山の諸師方が、書籍を編集したり、弟子に教えたり、人間界や天上界の人々や神々に教えたりしているけれども、その述べている言葉は、正に若さが目立ち、その言葉も未熟であり、学問的な世界の頂点にさえ達していないのであるから、どうして体験の段階における周辺にさえ到達している事があり得よう。
唯、文章の言葉だけを伝えて、仏や経典の名前だけを唱えさせている。昼となく夜となく他人の財産を計算して、本人自身としては一銭の半分に相当する取り分もない。
過去における祖師方の責任も、このような事態の中にある。
ある場合には人々に対して、心とは無関係な処に正しい覚りが有るような主張を教え、
ある場合には人々に対して、この世の中以外の世界に生まれる事を願うような考え方を教える。
さまざまの惑いや乱れは、此のような処から始まり、間違つた考えも、此のような事態が密切に関係している。
仮に非常に優れた薬を与えたとしても、薬害を減らす方法を教えなければ、病気の原因になつてしまつている事は、毒薬を飲むよりも弊害が酷い。
わが日本の国においては昔から、良い薬を与える人が居ないように見受けられるし、毒薬の害を消す事の出来る師匠がまだ出ていないように見受けられる。
このような事情から、生まれる病気になるというような事情を、取り除く事が難しく、年を取り死を迎えるというような事実を、どうして免れる事が出来よう。
このような弊害は、何れも皆師匠の責任であり、弟子の素質の悪さが原因では決してないのである。
何故そのような事を主張するかというと、人の師匠に成るような人が他の人に対して、根本的なもの
を捨て、末梢的なものを追求させる処から、そのような事態が起こるのである。
そのような師匠は、まだ自分自身の理解が確立されていない以前から、一方的に自分自身の考えだけを使い、何の理由も無しに他の人を、間違つた境涯に落してしまう事態を起こしてしまうのである。
非常に哀れな事ではあるけれども、他の人々の師匠になるような人でさえ、心の働きとは無関係の覚りを求めさせたり、この世の中以外の世界に生まれる事を、求めさせたりしているのであるから、その人の弟子がどうして、心の外に正しい覚りを求めたり、この世界以外の世界の中に、生まれようとする事が間違いか否かについて、どうして正しい判断をすることが出来よう。
文明から遠く離れた小さい日本の国においては、まだ充分には釈尊の教えが行き渡つておらず、正しい師匠が、まだこの世の中に現れていないことは、悲しい事である。
若しも最高の教えである釈尊の教えを学びたいと思うならば、遠く宋の国の優れた僧侶を訪ねると良い。
遠く心の外の行いの世界を振り替えつて見ると良い。もしも正しい師匠を得る事が出来ない場合には、仏道は勉強しない方が良い。
元来、正しい師匠とは、年を取つているとか、修行の年限が長いとかということを問題とせず、唯、釈尊の正しい教えの内容がはつきりと分かり、正しい師匠からはつきりとした証明を得た人のことをいうのである。
文字に関する知識が優先する訳ではなく、理論的な理解が優先する訳でもなく、通常人の枠を超えた力量があり、常識を越えた意気込みがあつて、自分自身の個人的な意見に拘束されず、感情的な意見に停滞することもなく、日々の行いと佛道に対する理解とが完全に一致している人が、正に正しい師匠と云われる人の実体である。

(解説)

この章の最後に近い箇所で、道元禅師は、「正師を得ずんば、学ばざるに如(し)かず。」と云われている。その意味は、若しも正しい師匠に出会うことが出来ない場合には、仏道は寧ろ学ばない方がよいと云われている。そしてこの考え方は、非常に重要である。仏道を勉強するということは、自分が一生を掛けて追求する真実を求める努力であるから、もしもその真実が正しければ、その人の一生は非常に幸せなものになるのであるが、もしもその真実が正しくない場合には、その人は一回限りしか無い人生を、正しくないことの為に費やしてしまうのであるから、その不幸については、想像以上のものがある。
そこで道元禅師は、もしもその正しさがはつきりと分かつていない師匠について仏道を求めることは、自ら努力をして不幸を求めることになるから、そのような愚かな努力は、決してやるべきではないと云われているのである。
このことは、教えが正しいか正しくないかによつて、仏道を勉強することが、自分の生涯を幸せにするか、不幸せにするかを分けるのであるから、われわれも仏道を勉強するに当つては、徹底的に正しい師匠を得なければならない事を、非常に重要な用件として、真剣に考えるべきである。

「注記」私は去る九月十五日から、朝の坐禅の時間を30分から元の45分に戻すこととしたが、その変更の効果は、可成り大きいように感じられる。