ドーゲン・サンガ(3)父親の特殊訓練
父親の特殊訓練
私があまり宗教的でもない家庭に育ちながら、16歳の頃から強く佛教思想に引かれるようになつた原因を考えて見ると、その一つの大きな原因は、私が幼少の頃に父親から受けた、駆け足に関する特殊教育があつたように思う。私は6、7歳に成る頃までは、決して体力的に強い子供ではなかつた。身体も普通よりは小さく、それに伴つて気も弱かつた。毎年行われる小学校の運動会においても、必ず最下位の方を走つていた。
父親は私のその状態を心配したものと思う。その後夕食が終わると、父親は私を必ず散歩に連れ出すようになつた。そして道路の脇に立ち並んでいる電信柱の、何本か先の柱を指さして、「あの柱まで走つて行つて、また走つて帰つて来い」と命令した。私はそんな動作に、一体何の意味があるのかは皆目解らなかつたけれども、父親の喜ぶことであれば、反対することもないと考えて、云われる通りに従つていた。しかし何時の間にか走る距離が長くなり、それと同時に走る時間も何時の間にか、夕方から朝に変わつていた。距離が長くなつて見ると、父親は、私がかなり長い時間を走つて帰えつて来た訳であるが、その間私が走り出した地点に立つて、私を待つていて呉れる事が続いた。時間としても可成り長かつたし、冬の寒い季節には、走つて居る私よりも待つて呉れている父の方が、余程大変であつたと思う。しかし雨の降らない限り、そのような努力が一年中一日も休まず続けられた。
ところがそのような生活を毎日繰り返していると、私自身の方に奇妙な変化が、次々に現れて来るようになつた。一年生から三年生までは毎年最下位であつた運動会の成績も、四年生から六年生までは毎年一等を取るようになつたし、ものの考え方が、子供らしく感情的に喜んだり悲しんだりするのではなく、目の前の事実を眺めながら、全ての物事に付いて大人のような判断をするようになつた。つまり子供らしい処が無くなり、未熟な大人としての生き方が、何時の間にか身に付いてしまつたような印象を持つようになつた。そしてそのことは自分にとつて、決して幸せなこととは受け取る事が出来なかつた。ある寒い冬の朝、小学校の校庭で自分の手が、意外に火照つていることに気が付いたが、その理由が解らなかつたため、不思議に思つてそつと自分の手を、校庭にあつた水槽の冷たい水に浸けて見たことがある。今から考えて見れば、朝食の前に子供として分不相応な長い距離を走つていたのであるから、血液の循環がよくなつており、何の不思議もない事柄ではあつたけれども、自分としてはどうも普通ではないのではないかと感じて、悩んだことがある。
規則正しい生活の反動
13歳位になつた時から、少し大人になつて町中を走ることが多少恥ずかしくなつたので、父の意向に逆らつて、朝走ることを止めてしまつた。ところが気が付かない内に生活の変調が現れ、それまで想像以上に整つていた自分の私生活が、何時の間にか崩れ始めた。折から思春期特有の肉体的な悩みも加わつて、私の私生活は想像も付かない程の混乱状態に落入り、私は絶えず町中を彷徨い歩くような状態に落ち込んだ。その間における多少のプラスといえば、当時今日の百万分の一程度の価格に落ち込んでいた日本文学や仏、独、露の外国文学に関する翻訳の古本を手当たり次第に読む事が出来た事であつて、そのことによつて得られた私の思想遍歴は、何が真実かを追求する上で、非常に大きな役割を果たしたように思う。
そのような思春期の混乱状態を救つたものは、目前に迫つて来た高等学校の入学試験であつた。私の青春彷徨も次第に収まつて、不思議なことに何時の間にか、勉強の合間に再び町中を走り廻つて、勉強の効率を高めるという習慣も始まつた。その当時、全国には政府直属の高等学校が、四十数校あつたように記憶しているが、私はその中から静岡高等学校を選んだ。聞く処によると、私の入学試験における成績は、文科系のトツプであつたとのことである。
高等学校における運動部生活
入学試験の直後、運動部からの入部勧誘があつた時、私は自発的に陸上競技部を選んだ。中学時代に柔道も初段を取つて居たから、柔道部からの勧誘もあつたけれども、自分としては子供の時から走つていた経験も手伝つて、どうしても陸上競技をやつて見たかつた。
自分の身体は必ずしも、陸上競技に向いているとは云えなかつたかも知れないが、兎に角激しい練習を繰り返せば、何とかなるであろうと考え、練習に次ぐ練習を繰り返した。素質に恵まれていない自分としては、それ以外に頼る道がなかつた。高等学校の二年頃からは、朝食前にも練習するというような努力もして見たが、結果は必ずしも満足出来るものにはならなかつた。ただひた向きな練習量としては、人間の限界に挑戦することを主眼とした。したがつて今から考えてみると、結果の善し悪しよりも、宗教的な切実さで努力の限界に挑戦するという性格があつたのかも知れない。兎に角三年間の無謀な努力が終わつた。そしてそこに残つたものは、人間があらゆる妥協を乗り越えて、純粋に一つの修行に全身全霊を傾けた場合、そこに生まれて来る極めて純粋な言葉で表現する事の出来ない世界は、一体何なのかという疑問が残り、われわれが求めている真実とは、そのように真剣な行いそのものから生まれて来る事実なのかも知れないと考えるようになつた。そして人類の長い歴史の中には、殆ど無数と云つてもよい哲学や宗教があるのであるから、その多数の哲学や宗教の中には、われわれが運動競技を真剣に実行する処から生まれて来る哲学についても、それに該当する哲学なり宗教なりがある筈であるから、何とかその教えを勉強して見たいという気持ちが、非常に強くなつた。
私があまり宗教的でもない家庭に育ちながら、16歳の頃から強く佛教思想に引かれるようになつた原因を考えて見ると、その一つの大きな原因は、私が幼少の頃に父親から受けた、駆け足に関する特殊教育があつたように思う。私は6、7歳に成る頃までは、決して体力的に強い子供ではなかつた。身体も普通よりは小さく、それに伴つて気も弱かつた。毎年行われる小学校の運動会においても、必ず最下位の方を走つていた。
父親は私のその状態を心配したものと思う。その後夕食が終わると、父親は私を必ず散歩に連れ出すようになつた。そして道路の脇に立ち並んでいる電信柱の、何本か先の柱を指さして、「あの柱まで走つて行つて、また走つて帰つて来い」と命令した。私はそんな動作に、一体何の意味があるのかは皆目解らなかつたけれども、父親の喜ぶことであれば、反対することもないと考えて、云われる通りに従つていた。しかし何時の間にか走る距離が長くなり、それと同時に走る時間も何時の間にか、夕方から朝に変わつていた。距離が長くなつて見ると、父親は、私がかなり長い時間を走つて帰えつて来た訳であるが、その間私が走り出した地点に立つて、私を待つていて呉れる事が続いた。時間としても可成り長かつたし、冬の寒い季節には、走つて居る私よりも待つて呉れている父の方が、余程大変であつたと思う。しかし雨の降らない限り、そのような努力が一年中一日も休まず続けられた。
ところがそのような生活を毎日繰り返していると、私自身の方に奇妙な変化が、次々に現れて来るようになつた。一年生から三年生までは毎年最下位であつた運動会の成績も、四年生から六年生までは毎年一等を取るようになつたし、ものの考え方が、子供らしく感情的に喜んだり悲しんだりするのではなく、目の前の事実を眺めながら、全ての物事に付いて大人のような判断をするようになつた。つまり子供らしい処が無くなり、未熟な大人としての生き方が、何時の間にか身に付いてしまつたような印象を持つようになつた。そしてそのことは自分にとつて、決して幸せなこととは受け取る事が出来なかつた。ある寒い冬の朝、小学校の校庭で自分の手が、意外に火照つていることに気が付いたが、その理由が解らなかつたため、不思議に思つてそつと自分の手を、校庭にあつた水槽の冷たい水に浸けて見たことがある。今から考えて見れば、朝食の前に子供として分不相応な長い距離を走つていたのであるから、血液の循環がよくなつており、何の不思議もない事柄ではあつたけれども、自分としてはどうも普通ではないのではないかと感じて、悩んだことがある。
規則正しい生活の反動
13歳位になつた時から、少し大人になつて町中を走ることが多少恥ずかしくなつたので、父の意向に逆らつて、朝走ることを止めてしまつた。ところが気が付かない内に生活の変調が現れ、それまで想像以上に整つていた自分の私生活が、何時の間にか崩れ始めた。折から思春期特有の肉体的な悩みも加わつて、私の私生活は想像も付かない程の混乱状態に落入り、私は絶えず町中を彷徨い歩くような状態に落ち込んだ。その間における多少のプラスといえば、当時今日の百万分の一程度の価格に落ち込んでいた日本文学や仏、独、露の外国文学に関する翻訳の古本を手当たり次第に読む事が出来た事であつて、そのことによつて得られた私の思想遍歴は、何が真実かを追求する上で、非常に大きな役割を果たしたように思う。
そのような思春期の混乱状態を救つたものは、目前に迫つて来た高等学校の入学試験であつた。私の青春彷徨も次第に収まつて、不思議なことに何時の間にか、勉強の合間に再び町中を走り廻つて、勉強の効率を高めるという習慣も始まつた。その当時、全国には政府直属の高等学校が、四十数校あつたように記憶しているが、私はその中から静岡高等学校を選んだ。聞く処によると、私の入学試験における成績は、文科系のトツプであつたとのことである。
高等学校における運動部生活
入学試験の直後、運動部からの入部勧誘があつた時、私は自発的に陸上競技部を選んだ。中学時代に柔道も初段を取つて居たから、柔道部からの勧誘もあつたけれども、自分としては子供の時から走つていた経験も手伝つて、どうしても陸上競技をやつて見たかつた。
自分の身体は必ずしも、陸上競技に向いているとは云えなかつたかも知れないが、兎に角激しい練習を繰り返せば、何とかなるであろうと考え、練習に次ぐ練習を繰り返した。素質に恵まれていない自分としては、それ以外に頼る道がなかつた。高等学校の二年頃からは、朝食前にも練習するというような努力もして見たが、結果は必ずしも満足出来るものにはならなかつた。ただひた向きな練習量としては、人間の限界に挑戦することを主眼とした。したがつて今から考えてみると、結果の善し悪しよりも、宗教的な切実さで努力の限界に挑戦するという性格があつたのかも知れない。兎に角三年間の無謀な努力が終わつた。そしてそこに残つたものは、人間があらゆる妥協を乗り越えて、純粋に一つの修行に全身全霊を傾けた場合、そこに生まれて来る極めて純粋な言葉で表現する事の出来ない世界は、一体何なのかという疑問が残り、われわれが求めている真実とは、そのように真剣な行いそのものから生まれて来る事実なのかも知れないと考えるようになつた。そして人類の長い歴史の中には、殆ど無数と云つてもよい哲学や宗教があるのであるから、その多数の哲学や宗教の中には、われわれが運動競技を真剣に実行する処から生まれて来る哲学についても、それに該当する哲学なり宗教なりがある筈であるから、何とかその教えを勉強して見たいという気持ちが、非常に強くなつた。
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