2006年7月14日金曜日

普勧坐禅儀(5)坐禅の実際

普勧坐禅儀の内容を説明した機会に、われわれの日常生活に関連して、坐禅における大切な問題を述べて置きたい。

(1)坐禅は毎日やらなければ意味がない。

坐禅はあれわれの身体の状態を正しい状態に保ち、自律神経のバランスを即座に具体化する修行法ではあるけれども、自律神経のバランスは瞬間瞬間の状態であるから、それが失われた場合、出来るだけ早く坐禅をする時間を得て、自律神経のバランスを回復する必要がある。したがつて道元禅師も、一日に四回坐禅することをわれわれに勧められた。しかし人間の社会には、それぞれの社会環境にしたがつて、実行可能な方法と実行困難な方法とがあるので、われわれはそれぞれ自分達が生きている時代環境に即応して、実行可能は方法を考えなければならない。われわれは多少の例外はあるけれども、現在資本主義の社会に生存している。したがつて通常の場合、さまざまの職業の実情に縛られて、一定の時間を金銭収入を得る仕事の為に使うことが一般に必要であつて、その条件を仮に無視した場合には、坐禅、坐禅という理論ばかりが盛んになつたとしても、一般に人々が毎日坐禅をする機会が与えられない場合には、人々が毎日坐禅をして自律神経のバランスを継続し、一日一日の生活の中で佛道修行を継続して行くことが不可能である。

(2)「さとり」に対する誤解

仏道修行に関連して、「さとり」というものがあることは、事実であるけれども、一般にその実体が正しく理解されていない処から、仏道全体の理解をする場合に、とんでもない誤解に繋がつているような例が、決して少なくない。
どんな誤解があるかというと、坐禅をしているとある日、様子が突然変わつて、それまでの考え方とは全く違つた考え方が突然現れ、身体も特別に健康な状態になるという理解の仕方がある。しかし佛道の世界では、そのような事はあり得ない。何故かと云うと、そのように頭の中で考えた思想が、この世の中で具体的に実現するという考え方は、いわゆる観念論と呼ばれる考え方で、釈尊が正しくない思想として否定された考え方であるから、釈尊の教えを正しい教えとして信ずる限り、観念論は正しいと信じてはならない思想であるということが云える。
それと同時に「さとり」という考え方については、もう一つ別の立場から生まれて来る誤解がある。それは
「さとり」という考え方は、われわれの身体の在り方と関係しており、身体が極端に衰弱したり、睡眠が著しく不足したりしたような時に現れて来る、異常体験として理解する考え方である。しかしこの考え方も、釈尊が修行の二番目の段階として実行された苦行の生活が、真実に到達するための正しい考え方ではなかつたという事と関係しており、唯物論的な立場から来る不自然な肉体の酷使も、決して「さとり」への道ではないという思想も、「さとり」に関連して明記して置かなければならない思想である。
頭の中で考えた思想や身体の異常な状態の中に「さとり」があると考える思想は、何れも仏道とは違う思想であるが、佛教と呼ばれる思想の中にも、そのように誤まつた思想が含まれているから、注意して排除する必要がある。

(3)本当の「さとり」

仏道における本当の「さとり」は、実際に坐禅をする事である。われわれが今日非常な恩恵を受けている欧米の文化の中では、人間の頭の中で考え出された思想と、感覚器官を通じて取り入れられる感覚的な美しさとが、文化における二つの基準と考えられるのであるが、仏道においては、そのような思想や感覚上の美しさを乗り越えて、現実そのものの中に真実を見る考え方である。
したがつて坐禅をする事に依り、自律神経をバランスさせ、思想の根源である交感神経と感覚的な美しさの根源である副交感神経とが、プラス/マイナス/ゼロの状態になつた時に現れて来る現実の世界が、真実の世界であることを自覚することが、第一の「さとり」である。その事は、坐禅をして落ち着いた状態の中で坐つて居る事が、基本的な「さとり」であり、真実そのものであるという考え方が、仏道における第一の「さとり」の意味している。
そのような形で毎日の坐禅を繰り返して、絶えず自律神経をバランスさせた状態で、三十年以上の歳月を経過すると、この世の中の全ての哲学問題を佛教哲学の立場で考え直すことが出来、それによりこの世の中の一切の問題を、仏道の立場で理解することが可能になるけれども、それを第二の「さとり」と呼ぶ事が出来る。

(4)空とか無とかという思想は完全な誤解

今日の日本における佛教思想においては、佛教における究極の思想は、この世の中の実体が空であり無であるという思想であるとされているけれども、この思想は、佛教思想に関する完全な誤解である。そしてこのような誤解が中国で行われ、日本で行われるようになつた根源を考えて見ると、二世紀から三世紀に掛けてインドにおいて活躍した佛教僧である竜樹尊者が、極めて優れた「中論」という佛教書を書いているのであるが、その中国語訳が四世紀に鳩摩羅什によつて行われている。処がこの鳩摩羅什によつて行われた「中論」の中国語訳を、サンスクリツトの原文と対比してみると、到底翻訳とさえ呼べないような極端な誤訳の集積である。しかもこの翻訳が、当時の中国政府における国家事業として行われた処から、中国においては
絶対の権威として認められ、その誤訳に溢れた「中論」を基準として、仏道の基本的な論議が行われた処から、釈尊の説かれた仏道は、この世の中が架空の世界であり、実在する世界ではないという主張が、碓立され定着するに到つた。
したがつてそのような中国佛教の影響から、現在における世界の佛教は、極端な誤訳に基礎を置く非実在論的な佛教を拔本的に改め、「中論」の原典における実在論的な仏道思想を復活させるという緊急事態に、直面していることが、実情であると考えざるを得ない。

(5)「中論」における実在論

竜樹尊者の「中論」を原文に忠実に読む限り、佛教思想は明らかに、この世の中が現実に実在することを主張している実在論思想である。「中論」は全体が二十七章に分かれているけれども、「中論」の説いている佛教思想が明らかに実在論であるという主張は、その第一章を精読しただけでも、明らかに読み取る事が出来る。
「中論」の第一章は、サンスクリツトではpratyayaという表現であり、その原語の意味は、信仰とか信念とかという意味である。したがつて竜樹尊者は先ず第一章において、「中論」全体に亘つて主張されている釈尊によつて説かれた佛教思想の中心内容が、どのようなものであるかを説いている。したがつて私も「確かな事実」という訳語を採用した。そして第一章は十四の頌から成り立つているけれども、その第一頌(じゅ)において竜樹尊者は、「主観的なもの(svato)は実在ではないし、客観的なもの(parato)も実在ではない」と述べている。そして「主観的なもの」とは、頭の中で考えられた観念と考えられ、「客観的なもの」とは、感覚的に捉えられた外界の刺激として理解されるところから、この第一頌における主張は、観念と外界からの刺激とは、共に実在ではないという主張であり、哲学界の二大主張である観念論と唯物論とに対する真向からの否定である。したがつて佛教思想の中には、観念論と唯物論との両方に対する徹底した否定のある事を、明快に受け取る必要がある。恐らく翻訳の衝に当つた翻訳者も、文章の冒頭から二大思想の両方に対する真向からの否定に直面して、先ず「中論」は虚無思想以外にはあり得ないという先入見に取り付かれてしまつたのではないかと推察される。しかし「中論」は、そのような虚無主義では決してない。
何故かというと竜樹尊者は、直ぐその次の第二頌において、彼が実在と考えていたものを具体的に四つ明示している。それは何かというと、理性(hetu)と、外界の世界(arambana)と、現在の瞬間と、現実(tatha)である。しかも彼は自信を持つて、五番目のものはないと云い切つて居る。このことは、彼が自分自身の主張する実在論に対して如何に自信を持つて居たかを物語つている。つまり彼はこの宇宙に遍満している理性と、われわれの外界に存在する世界と、現在の瞬間における時間と、綜合的な現実とを、実在として明確に信じていたのであり、彼が虚無主義者であつたということは、絶対に信ずる事が出来ない。
そして第一章の第四頌においては、第二頌で列擧した理性、外界の世界、現在の瞬間、現実そのものが、実はわれわれが日常生活において実行している現在の瞬間における行いと同じものである事が主張されている。
そしてさらに第九頌においては、われわれの日常生活における自己管理としての行いが、宇宙そのものと一体のものであることが主張されている。
このようにして、「中論」の第一章においては、観念も物質も実在ではなく、理性と外界の世界と現在の瞬間とが、一つに重なつたものが現実である。それは現在の瞬間における人間の行いであり、それが現在の瞬間における宇宙と一つのものであるという形で、明確な実在論が説かれている。
そしてそのような形における実在論を、伝統的な一定の姿勢を保持して坐り続けることによつて、実体験することが、坐禅である。

(6)坐禅の場所

必ずしも広い必要は無く、自分の身体を入れるだけの広さがあれば、実行が可能である。坐禅の場所を暗くする習慣があるけれどもこれは誤りであり、成る可く明るいことが望ましい。

(7)坐禅の姿勢

坐禅の姿勢は、普勧坐禅儀に定められた伝統的な姿勢を守ることが大切であり、椅子等を使うような事は、避けなければならない。

(8)呼吸の仕方

坐禅をしている際の呼吸の仕方については、さまざまの主張があるけれども、われわれの立場としては、道元禅師が残された永平広録の中の基準に、依拠するべきであると考えている。永平広録についても、数十年前に岸沢惟安老師によつて永平寺の書庫から発見され、丹羽廉芳禅師によつて復刻された「祖山本」道元和尚広録第五の390においては、道元禅師ご自身の坐禅における呼吸法が述べられている。
その中では先ず坐禅に関連しては,正身端坐、すなわち姿勢を正してきちんと坐る事が、最高の基準として強調されているが、その次に呼吸の方法が述べられている。
その説明によると、先ず道元禅師は、小乗佛教の立場から説かれている調息と致心という基準を否定しておられる。調息とは呼吸を整える努力であり、致心とは心を最高の状態に保とうとする努力であるが、道元禅師は、そのような小乗仏教に有り勝ちな理想主義的な努力を、先ず否定されている。そしてそのような小乗的な努力の具体的方法として、呼吸の数を数える方法と、自分達の心に関連して、それが汚れていると考える方法とがあるけれども、そのような小乗仏教で行われている方法は、絶対にやるべきでない事を強調されている。
それでは大乗佛教における呼吸法はどのようなものかというと、呼吸が長い時にはそれが長いと認識し、呼吸が短い時にはそれを短いと認識することであると云われている。つまり大乗仏教においては、それを意識的に長くするとか、意識的に短くするとかという努力をせず、唯それが長いか短いかを自分自身で自覚するという事を云われている。そして大乗佛教における呼吸法に関連しては、所謂腹式呼吸が行われていることを認めておられるけれども、道元禅師は意識的に腹式呼吸をする方法には、ご賛成でなかつたように理解される。何故かというと、そのように腹式呼吸を意識的に実行する事は、坐禅の修行が実質的に、腹式呼吸という意識的な努力に、摺り換えられてしまうからである。
それでは道元禅師ご自身は、坐禅における呼吸法に関連して、どのように理解しておられたのであろうか。道元禅師は、永平広録における坐禅に関する呼吸法の最後の処で、現代語に翻訳すれば、「元気がよければ坐禅をする。そうすれば居眠りすることがない。お腹が空いたらご飯を食べる。満腹した状態がどういうものであるかが分かる。」と云われている。このように道元禅師は、佛教哲学を徹底して「行い」の世界における問題として、考えておられたことが解る。