2006年7月6日木曜日

普勧坐禅儀(4)文意の説明

普勧坐禅儀は短い文章ではあるけれども、坐禅に関してどうしても書いて置かなければならない事項は、必ず記載されているし、書いても書かなくてもいいような事項は、決して書かれていない。したがつて普勧坐禅儀に書かれた内容は、何れも重要な意味を持つている処から、どのような事項を述べているかという問題に関して,それぞれの事項を分けて、説明することとする。
(1)現実世界の肯定:一般に観念論の考え方を信奉している人々は、頭の中で考えられる最高の状態を,この世の中のあるべき姿として考えるから、それに比べると、われわれが現に住んでいるこの世の中は、常に不満足な世界として捉えられる。処が唯物論の考え方を信奉している人々は,この世の中は物質だけから出来上がつた世界であるから,嫌な世界ではあるけれども、良くしようと思えば、いまの世界を壊すしかないと考える。ところが佛教では、現にわれわれが今住んでいるこの世の中は、われわれが住む事のできるたつた一つの世界ではあるけれども、真実の世界であり,最高の世界であると考える。したがつてわれわれは、現に最高の世界に住んでいるのであるから、理論的に考えるならば、われわれは大体において、まずまず妥当な状態の中に居る事が原則であつて、特に修行とか体験とかに頼つて、真実を求める必要はない筈であると考える。
(2)人間生活の実情:しかしわれわれ人間の実生活を考えてみると、実情はそのように安易ではなく、たまたま何らかの問題が起きてくると、その問題が何時の間にか,途轍もなく大きく広がつて、どうにも解決が出来ないようになつてしまう。仮に頭が良くて、直観的な判断力が優れており、特別の問題も良く分かり、自分でも大空を突き上げる位の勢いがあつて、悠々と歩き廻つているようには見えるけれども、実情を眺めてみると、頭だけが空回りしているだけであつて、身体全体が実行の世界に抜け出すという事が出来て居ない。
(3)過去の祖師方の実例:しかし釈尊その他の実例を見てみると、祇園精舎におられた釈尊は、坐禅の修行を6年間続けておられるし、少林寺におられた達磨大師もやはり、9年間坐禅の修行をしておられる。過去の諸先輩が、既にこのような努力をしておられるのであるから、現代に生きるわれわれが、坐禅の修行をしない事は許されない。
(4)坐禅修行の実体:坐禅をする事の実質的な内容は,言葉の意味を尋ねたり,文章の意味を追いかけたりするような理解に関する努力を止める事である。自分自身の心の向きを替えて、自分自身を照らすという自己観照の行為をすることである。身体と心に関する意識が自然に消えて、われわれ本来の目や顔が、現実に現れて来るである。もしも,そのような言葉では表現する事の出来ない現実の事態を、体験したいと思うならば、その言葉では表現出来ない現実の事態を、即座に行いを通して実現するべきである。
(5)坐禅のための環境:元来、坐禅をするにはなるべく静かな部屋がよく、飲み物や食べ物も、節度を保つ事が良い。さまざまな周囲の問題を全部投げ捨てて、すべての仕事を一時止め、善いとか悪いとかという問題を考えず,正しいとか間違つているとかという問題に、一切関心を持つてはならない。心、意思,意識を働かせる事を止め、想念、思考、直観等の心の働きを止めて,仏に成る事をさえ意図してはならない。日常生活における坐つたり,臥たりする動作とは、殆ど関係がない。
(6)坐禅の具体的なやり方:坐禅をやる場所には、普通、坐る為の厚い敷物を敷く。道元禅師の生きておられた時代の日本家屋は、畳敷きではなく板の間が多かつたから、板の間で坐禅をするには、厚い敷物が必要であつた。そしてその上に、坐蒲と呼ばれる坐禅のための円いクツシヨンを使つた。ある場合には結跏趺坐、ある場合には半跏趺坐。結跏趺坐の場合には、右の足を左の腿の上に載せ、左の足を右の腿の上に載せる。半跏趺坐の場合には、左の足で右の腿を押すという表現になつているが、このことは半跏趺坐の場合、多少の緩やかさが許されると理解する事が出来る。なお右足と左足とを入れ替えることが出来るかどうかという問題に関し、沢木興道老師は,右、左の問題は単に「道元禅師が一例を示されたまで」というご理解であつたから、右左の足を入れ替えることは差し支えない。衣類を足の上にゆつたりと掛けて、形を整える。次に右の手を左足の上部に位置付け、左手を右手の上に置く。両方の拇指の先が向かい合うようにして付ける。そして即座に、姿勢を正しくしてきちんと坐り、左に傾いたり右に傾いたりする事を避け、前に俯いたり後ろに反り返つたりしてはならない。耳の線と肩の線とが、水平線として平行線を辿り,鼻と臍とが垂直線の中で、向かい合う必要がある。舌は口蓋に付け、唇と歯とを互いに付け、目は常に開いて置く必要がある。呼吸は鼻を通して静かに行い、身体の姿勢が既に整つたならば,大きく深呼吸を一つしてから、身体を左右に揺り動かし、山がじーつと動かないような態度で坐禅を始め,具体的には何も考えない境地を考える。具体的には何も考えない境地は、一体どのように考えたらよいのであろうか。具体的には何も考えない境地を考えるということは、物事を考えることとは、別の状態である。これが正に坐禅をやる上での,大切な点である。
(7)坐禅の本質:坐禅と呼ばれる修行は、安定した状態を求めて、それを練習することではなく、坐禅をしている状態そのものが、既に安らかで楽しい宇宙の秩序に入り込んだ状態である。既に真実を極め尽くした状態に於ける修行であり、体験である。宇宙の原則そのものが、既に出来上がつてしまつていて、人間の邪魔をしたり,束縛となつたりするような事態が、まだ何も現れていない状態である。もしもこの事情が分かつて来ると、竜が水を得て元気付けられた状態であり、虎が山を背にして自分を護つているような強い状態に似ている。その状態は、先ず最初に正しい宇宙の原則が目の前に現れて、交感神経が強い時に現れて来る暗い状態も、副交感神経が強い時に現れて来る纏まりのない状態も、両方とも消えてしまう実情を、直接の形で知るべきである。
(8)坐禅の終わり方:坐禅を終わつて、坐つた状態から立ち上がる場合には、ゆつくりと身体を動かし、安らかに落ち着いた態度で、立ち上がるべきである。慌てたり乱暴であつたりしてはならない。
(9)坐禅の成果:坐禅から生まれた成果を観察して見ると、凡人とか聖者とかという区別を乗り越えた境地も,坐禅をした結果として生まれて来るのであり、坐禅をしながら亡くなつたり、立つた姿で亡くなつたりした過去の祖師方の事例も、皆坐禅をした結果から、生まれて来ている。況して中国の倶抵和尚が、どのような質問に対しても、中指一本を指し出して答えに替えた態度とか、阿難陀尊者がたまたま旗竿を片付けていた時に、真実を得たとか、竜樹尊者が出家の立場を説明するために、針を水の中に沈めたとか、文殊菩薩が修行僧の注意を喚起するために、槌を打つた等の事例は、全て坐禅の修行の結果として生まれて来ているのであり、仏道の師匠が修行僧を教える際に、払子や握り拳や棒や「喝」という叫び声を使つたりするような体験も、物事を考えたり分類したりする頭の働きでは、決して理解出来るものではない。神秘的な能力だとか、修行だ体験だと云つてみても、本当の内容は頭で考えて解るものではない。言葉や外見では分からない威厳に溢れた姿であろう。どうして頭で考えたり感覚的に捉えたりする以前の基準によるものでないということが云えよう。勿論、道元禅師の生きられた時代には、自律神経のバランスに関する知識は全くゼロではあつたけれども、道元禅師は坐禅に於ける効果が,知能や感覚の支配する領域とは、全く領域が違うということを見抜いておられたということが云える。
(10)頭の良い悪いは無関係:したがつて頭が良いとか悪いとかという問題に付いて議論をしたり、頭が良いとか悪いとかによつて、人を選り好みする必要はない。誰でも一所懸命に努力さえするならば、正に真実の探究である。修行と体験とは本来一体のものであつて、分裂しているものではなく、何処に向かつて進んで行くべきかという目標も、完全に均衡が取れており、恒常的なものでもある。
(11)仏道の普遍性:一般的に云うならば、われわれの生きている世界においても、他の人々が生きている世界においても、西方のインドにおいても、東方の中国や日本においても、釈尊がお説きになつたのと同じような共通の特徴を持ち、根本的な態度を独占的に占有しており、唯,坐禅だけを一所懸命にやり、不動の境地の中で,自己管理されている。いろいろと細かい相違はあるかも知れないが、自律神経のバランスを体験して、真実の探究に努力するべきである。どうして自分自身が坐るべき場所を投げ出して、何の理由もなしに、自分の居るべき場所とは違う環境の中で、右往左往する必要が何処にあろう。もし一歩でも間違うと、即座に間違いを犯してしまう。われわれは幸いにして既に人間として、掛け替えのない重要な素質を与えられているのであるから、何の意味もない形で、無駄に時間を過ごすべきではない。われわれは既に坐禅と云う釈尊が説かれた最も大切な修行法を持ち続けている。誰が無闇に貴重な時間を、詰まらぬ楽しみの為に使うことが出来よう。
(12)宇宙の全員に対するお願い:そればかりではない。われわれの肉体的な素質は、草の葉の上の露のように果敢なく、命の移り変わりは稲妻のように瞬間的である。「あつ」と云う間になくなり、瞬間的に失われる。そこで佛道を体験的に勉強しておられる高貴な方々に、心からお願いしたい。どうか長い期間に亘つて、真実の模型に馴れ親しんで来たために、本当の竜である坐禅を疑わないで頂きたい。直接真実を指し示す事の出来る真実そのものである坐禅に対して努力をし、学問を超越して作為的な努力をしなくなつてしまつた人格を尊敬し、沢山の真実を得た方々の持つておられる真実と合致し、多くの祖師方が持つて居られた自律神経のバランスを正しく継承して頂きたい。長い期間に亘つてその事を実行されるならば、それこそが言葉で表現する事の出来ない何かであろう。宝の一杯詰まつた宝庫の扉が自然に開かれて、それを受け取りそれを使いこなすことが、自由自在に出来ることであろう。