2006年5月20日土曜日

坐禅(3)坐禅の実体

(道元禅師が示された坐禅の基準)其処で坐禅とは何かという問題が登場して来るが、道元禅師はこの問題に付いて、四つの基準を示されているように思う。
(1)非思量:佛教の中でも自ら禅宗と自称している一派では、坐禅の修行が何か物事を哲学的に考える事が目標のように理解して、師匠が公案と呼ばれる仏教上の物語を弟子に与え、弟子がその問題を坐禅中に、一所懸命に考えることが、坐禅の修行であると考えている宗派もあるように聞いているけれども、これは坐禅という修行法に対する、極端な誤解である。今日までわれわれは輝かしい古代ギリシャ、ローマ時代以来の理性的な思考に根ざした文化の中で、限りない恩恵を与えられて来たが、そのような理性的な思考の文化は、最近における欧米文化の急速な発達に依り、長期的な歴史的な視野から眺めるならば、華々しい終局を迎え、今や人類文化の中心が、従来の理性的な思考の文化から、実践的な「行い」の時代に移りつつあるように思う。このような情勢から、坐禅の修行の中心が、今日まで西欧文化の中心であつた理性的な思考の文化から、「行い」を中心とした実践の文化に大きく移行しつつあるという事実は、可成り重要な歴史的事実であつて、佛教の正しい意味を理解し、坐禅の本質を実践的に捉える為にも、極めて重要な観点である。
(2)正身端坐:次に道元禅師が取り上げられた坐禅の特徴は,正身端坐という言葉によつて、表わされているように思う。正身という言葉は、「姿勢を正しくする」という意味であり、端坐という言葉は、「きちんと坐る」という意味である。坐禅は頭で問題を考えることでもなければ、感覚器官を通じて外界からの刺激を受け入れることでもない。それは正に坐つている行いそのものであるけれども、観念論と唯物論という代表的な二つの哲学に、何千年にも亘つて分裂し続けたわれわれの過去における哲学では、捉えることの難しい哲学である。しかし何千年も前から、思考でもなく感覚的な刺激でもない、現在の瞬間における行いを中心にして説かれた佛教哲学においては、もつとも重要な哲学である。釈尊はわれわれ人間が、その日常生活において,理知的な思考に捉えられ過ぎたり,感覚的な刺激に捕らわれ過ぎたりすることが、人間にとつて決して幸福なことではないことに気付かれた。そしてそのようにわれわれ人間が、思考か感覚かの一方に片寄り、必要以上に考え過ぎたり、必要以上に感じ過ぎたりして苦しむ傾向から救い出すために、古代インドにおいて長い期間に亘つて維持されて来たヨーガにおける最高の坐法を取り上げて、仏道における中心的な修行法とされた。
(3)身心脱落:道元禅師の生きておられた時代に、自律神経に関する理論が、人類に知られていなかつたことは云うまでもない。しかし正法眼蔵の弁道話の巻に出て来るように、仏道においては古くから「自受用三昧」という言葉が、坐禅の時の境地を表わす言葉として使われている。そしてこの「自受用三昧」という言葉の意味を考えて見ると、自受用という言葉は、自受と自用との二つの言葉に分かれ、自受は自分自身を素直にその侭受け入れるという意味に理解され、自律神経における副交感神経の働きを,直観的に捉えた言葉ではないかと解される。また自用と云う言葉は,自分自身を積極的に活用すると云う意味で、自律神経の中の交感神経の働きを、暗示しているように理解される。このような事情から私は、坐禅の境地を表現するために古来から使われている「自受用三昧」という言葉が、勿論、当時から坐禅の境地に関連して、近代的な科学の立場から、自律神経に基礎を置いた説明があつた訳ではないけれども、自律神経がバランスした時に生まれる直観的な判断があつたと理解している。
したがつて身心脱落という言葉は,体と心とが具体的に失われる不可解の意味の言葉ではなく、自律神経がバランスした時に発生して来る、副交感神経と交感神経との間に生まれて来るプラス/マイナス・ゼロの状態を指すものと解され、副交感神経の働きを示す身体に関する意識と、交感神経の働きを示す心に関する意識との両法が、実感出来ない状態の描写であると考えられる。
(4)只管打坐:そこで道元禅師は最後に坐禅を表現する言葉として、只管打坐という言葉を使われている。只管とは「ひたすら」という意味であり、純粋に唯一つのものに全精力を集中することを意味する。また打という字は「動作をする」という意味があり、坐は勿論坐るまたは坐禅をするの意味である。従つて只管打坐という言葉の意味は、坐禅は坐禅すること自体が目的であり、坐禅以外の目的をもつて坐禅をすべきではないの意味であり、例えば悟りを開くために坐禅をするというような、坐禅を何らかの他の目的のための手段として考えることに対する否定である。別の言葉を使えば、坐禅は坐禅すること自体が目的であり、坐つている行為そのものが悟りである。従つて仏道においては、修証一等ということを唱え、修行と体験とは完全に一つのものであるという考え方が、その根底にあるけれども、このように行為と目的とが完全に一つに重なつた現在の瞬間における行いが、坐禅の実体である。
(実行が全て)従つて坐禅は、坐禅に関する理論を勉強したり、他の人の坐禅を傍から眺めて感心したりしていることが、坐禅ではない。正法眼蔵の弁道話の中にも、「修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」という表現があるけれども、これは「坐禅は実際に実行するのでなければ、地球の上で発現することが不可能であるし、自分自身が実際に体験して見なければ、坐禅の修行そのものが自分のものには決してならない」という意味である。そしてこのような考え方が、何千年にも亘つて人類の文化を支配して来た、観念論と唯物論との対立を主軸とする主知主義の文化と、今後世界全般に広がるであろうと考えられる佛教的な実在論との関係を見た場合、最も鮮明に両者の次元的な違いを表わすと考えられる中心的な特徴が、坐禅を実行するか、坐禅を実行しないかという相違に中に隠されているのであり、その持つ意味は、極めて重大である。
道元禅師がお書きになつた弁道法という著作の中では、一日四回の坐禅が説かれている。即ち(1)早朝の坐禅、(2)朝食後の坐禅、(3)昼食後の坐禅、そして(4)夕方の坐禅の四回である。なお時代毎における社会環境の変化を考えた場合、道元禅師の生きておられた13世紀の日本においては、農耕生産を中心とする封建社会が形成されていたし、われわれが現に生きているこの21世紀においては、地上には新幹線が走り回り、大空には最新鋭の航空機が飛び廻つて、資本主義的な経済体制を中心とした市場経済が行われている。
したがつて、道元禅師の生きておられた時代には、最も坐禅の修行法として生活環境に合つていたものが、20世紀の今日においては、非常に実行が困難になつている場合も、無いとは云えないように思われるので、その点では現実の生活環境に合わせて、検討して見なければならない問題もあるように思われる。