2006年1月29日日曜日

行いの哲学(4)坐禅

行いの哲学における最後の段階で、仏道の中心である坐禅に到達した。しかし此処で大切な事は、坐禅の説明は、決して坐禅そのものではないということである。坐禅そのものは、われわれが自分自身の足を組み、手を組んで坐禅の状態に入つて行く行いの世界であつて、文字を頼りにしながら,坐禅の説明を読むことと、坐禅を実際にやる事とは、全く次元の違う世界の出来事であることを、特にはつきりと頭に置いて頂きたい。
坐禅に関する具体的なやり方の説明や修行の実際につぃては、この仏教哲学の説明が終わつてから、稿を改めて出来るだけ丁寧に説明する予定にしているので、それまでお待ち頂きたい。
仏道は欧米の世界では極めて珍しい実践の哲学である。実践があつて始めて具体化する世界である。したがつて仏道は坐禅がなければ、実現できない。
しかしそれと同時に仏道は、坐禅の実修さえあるならば、われわれは直ちにそれを具体化することの出来る性質のものである。したがつて道元禅師も「正法眼蔵弁道話」の中で、「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。」と云われている。その意味は、「この宇宙の原則は、人々個人個人の上に充分に具わつている処ではあるけれども、まだ実行していない場合には表面に出て来ないし、実際に体験して見ないとどんなものかが分からない。それに拘わる事をやめると、手の平一杯に溢れて来て、一つであるとか多数であるとかという相対的な比較の問題ではなく、口を使つて言葉で説明することになると、云いたい事が次々と縦横無尽に出て来て無限に続いて行く。」と云われている。