2006年1月27日金曜日

行いの哲学(3)刹那生滅の道理

正法眼蔵の中に「有時(うじ)」(11)という巻がある。「有」は存在の意味であり、[時」は時間の意味である。したがつて有時という言葉は,現実の世界においては、何らかの事物の存在は、必ず時間の存在と同時に現れて来る現象であつて、事物の存在は時間の存在がなければ存在し得ないし,時間がなければ一切の存在はあり得ないという主張である。正法眼蔵の中の表現では、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」となつており、現実の世界においては,時間と存在とは必ず同時に存在し,存在と時間とが別個の存在として実在することは、絶対にあり得ないという主張である。
この考え方は、今日では決して仏教だけの考え方ではない。事実、ドイツの哲学者であるハイデツカーは、「時間と存在」という本を書いているけれども、その内容は正に、現実の世界においては時間と存在とは常に一体であつて、切り離して考えることが不可能であることを主張している。
佛道における現実の時間は、過去、現在、未来というふうに、長く横に繋がつた線のようなものではなく、現在の時点における極めて短い刹那と呼ばれる瞬間である。そこで正法眼蔵の「発菩提心」の巻では、「おほよそ發心得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。」と説き、『一般的に云うならば、真理を知りたいという気持ちを起こしたり、真実を得たりする事実は,何れもこの世の中が瞬間瞬間に生まれては消え、生まれては消えしているからこそ、起こり得ることである。もしもこの世の中が生まれては消え、生まれては消えしているような、瞬間瞬間の存在でないならば、前の瞬間における悪が、何時まで経つても消え去ることが出来ない。そして前の瞬間における悪がまだ立ち去つていない場合には、後の瞬間における善が、現実の世界に現れて来ることが出来ない。」と。これが現在の瞬間という考え方を基礎に置いた
仏道における現実主義である。
したがつて道元禅師は、同じ「発菩提心」の数行後の箇所で、次のように述べている。「しかあれども凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆえに、菩提心をおこさず。」と云われ,さらに「佛法をしらず、佛法を信ぜざるものは、刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如来の正法眼蔵涅槃妙心をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり。」と云われている。その意味は「然し乍ら仏道を知らない一般の人々は、(この刹那生滅の道理を)知らず、そして(刹那生滅の道理の道理を)信じない処から、真実を知りたいという気持ちを起こさないのである。」と云われ,さらに「釈尊の教えを知らず、釈尊の教えを信じない者は,刹那生滅の教えを信じないものである。しかし釈尊のお説きになつた正しい宇宙秩序の眼目の所在、静かで落ち着いた素晴らし心境を、はつきりと知つているような人々は、例外なしにこの刹那生滅の道理を信ずるのである。」といわれている。
現実の世界は、過去、現在、未来と云うように長く横に繋がつた時間系列としてあるのではなく、極めて短い途切れ途切れの現在の瞬間としてあるのである。
しかもこの刹那生滅の道理が、数千年に亘る人類の歴史の中で、今日まで解決を見ることのなかつた、人間が自由であるか、束縛されているかという問題について、明快な回答を与えている。人間は例外なしに、途切れ途切れの現在の瞬間の中に生きている。したがつてその現在の瞬間における現実の行いの在り方は、真珠の玉がカミソリの刃のように幅の狭い現在の瞬間の中で、生まれては消え、生まれては消えしているのと同じ状態であるから、そのような状態の中にある人間の現在の瞬間における在り方は、過去、現在、未来という長い時間系列に縛られておりながら、現在の瞬間において自由であり得るという解説が、成り立つのである。