2006年1月8日日曜日

四諦の教え(3)四諦の実体

四諦の教えは、単に仏教の教えに付随した理論というだけの意味ではなく、われわれの日常生活に伴う現実的な事実の問題でもある。そこでそのような日常生活の問題として、ある人が自分自身で新しい事業を始める場合を予想しながら,苦、集。滅、道の四つの哲学が、どのような形で展開して行くかを考えて見よう。
(苦諦の段階)どのような事業を始める場合でも、先ずその事業に関する構想が必要である。しかも世間一般で考えるような平凡な構想であれば、誰でも考える処であり実行の出来る処ではあるけれども、その場合には競争者が多数現れ,成功の可能性は極めて低い。したがつて新しく事業を始める立場にある人々が、事業の成否を考えて苦慮する状態は、決して容易なものではないであろう。新事業に於ける構想の努力そのものが、苦しみそのものであると云えないこともない。
(集諦の立場)しかし構想の善し悪しだけを基準にして事業を始めようとすれば、それは非常に危険な話である。何故かと云うと、われわれが現にその中に住んでいる具体的な世界は、単に頭の中だけで考えた想像の世界ではないから、その事を念頭において、物質的な側面を計数的に考えてみることが、不可欠である。処が人間社会というものは皮肉なもので、想像力豊かな楽観的な人々は,得てして計数的な検討の面で弱い。逆に計数的な検討に強い実質的な考え方の人は,夢のような壮大な構想に弱い。したがつて人が人生において成功を収めるためには、努力して弱点を克服することが必要な面もあるように思われる。ともかくも新しい事業を始めるに当たつては、差し当たりどの程度の資金調達が可能であるとか、工場建設のための用地が手に入るかとか,交通の便は良いかとか,労働力が確保出来るかとか,水の便が悪くないか等さまざまの問題を考えなければならない。
(滅諦の立場)しかし構想ができ,具体的に物質的な条件が整つたとしても、それだけでは事業というものは、絶対に動かない。では何がいるかというと、実行である。滅諦の中の滅という字には、自己規制の意味があり,行いの意味がある。四諦の教えが何故、世界の文明史の中で大きな意味を持つ事が出来るのかを考えて見ると、それは釈尊の天才的な頭脳と体験とから、われわれが現にその中に生きている現実の世界は,頭の中で考えた思考の産物でもなければ,感覚器官の捉えた外界からの刺激でもなく、われわれ自身の心と体とを一つに纏めた行いが、実行された現在の瞬間に於いて現れる現実の世界である。したがつてわれわれは四諦の教えに関する哲学的な構成に関して、苦諦,集諦の世界と滅諦、道諦との間には、次元の異なつた断層があることに気が付かなければならない。事業に関連しても,単に構想と検討だけがあつて実行がなければ、事業の存在は地球上には全くあり得ないのである。そこで事業の開始以来、毎日の活動が始まる。そして毎日の活動の中では,事前に予想することの出来なかつたさまざまの事実が次々に起こる。そのように全く予想する事の出来なかつた事実を次々に解決しながら、前に進んでいく努力が事業である。
(道諦の立場)しかもわれわれ仏教徒は、この世の中に於ける宇宙秩序の実在を信じているのであるから,われわれの事業に於ける行動も,当然宇宙の秩序と合致しなければ成らないのであつて、われわれの日々における事業活動も例外ではない。そのような形でわれわれの日常生活における営利行為と宇宙の秩序に従う行いと合一があり、人生の喜びがある。営利そのものが人生の目的であるという事実は,宇宙の中には存在し得ないという事が、われわれが生きている宇宙の中の実情のようである。。