2005年12月28日水曜日

真理の探究(3)「さとり」とは何か

苦行が真実を知るためには、何の役にも立たないばかりでなく、むしろ真実を知る為には邪魔になる事を知つた釈尊は,思い切つて苦行の森を後にした。釈尊と一緒に苦行を続けて来た修行者達は、釈尊が苦行の厳しさに耐える事が出来なくて,苦行から脱落したものと思い込み、釈尊を軽蔑して非難した。しかし釈尊はそのような誤解を少しも気にすることなく、苦行の森を後にした。恐らく釈尊の心の中には,真実を求めるという事以外には、何も存在しななかつたのであろう。釈尊はそのような修行僧達の非難を少しも気にする事無く,決然として苦行の森を後にした。釈尊がナイランジャラーと呼ばれる川の畔を歩いていると、近隣の村の娘スジヤーターが、釈尊のあまりにも衰弱した姿を見て、自分の持つて居た乾粥を釈尊に差し上げた。
釈尊はその乾粥を食べて多少人心地の付いた所で、次の修行に出發した。インドにおいては古代インドの時代から,ヨガと呼ばれる修行法があり、釈尊はそのヨガと呼ばれる修行法の中、最も優れているとされている現在の坐禅の姿勢と同じ姿勢を採用されて、熱心に修行された。その修行が数年続き、ある冬の朝、釈尊が坐禅をしておられた時に、ふと自分が、頭の中で生まれた考えの中に生きている訳でもなく、また感覚的な刺激の中に生きている訳でもなく,実に現実の世界の中に生きている事に気が付いた。経典の中の記載としても、「山川草木.悉皆成仏」という表現があり、正法眼蔵の中にも、「山河大地、同時成道」という表現がある。前者は「山も川も草も木も、一切が悉く真実になつた」という意味であり、後者は「山も河も大地も、一斉に真実となつた」という意味であつて、およそ一切のものが真実であり、現実である事に気が付いたということを意味している。この事は抽象的に頭の中で考えられた思想が、真実という訳ではなく,感覚的に捉えた映像が真実と云う訳もなく、逆にわれわれの周囲を取り巻いている現実の世界そのものが、真実であるという主張である。それは長年に亘つて築き上げて来た観念論と唯物論とが、何れも頭の中で考えられた幻想であり、真実と呼ばれるものは、現にわれわれがその中に住んでいる現実世界そのものであるという思想が、正しい事に気が付いたということを意味する。つまり「さとる」とはこの意味であり、今まで正しいと考えられて来た観念論と唯物論とが、実は幻想の世界であり、真実とは正にこのわれわれの眼の前に展開している現実の世界そのものであるということをの確信した事である。