2006年1月1日日曜日

真理の探究(5)二種類のさとり

「さとり」に関連しては昔から、頓悟と漸悟との対立がある。頓悟という考え方は、坐禅をしているとある日突然、「さとり」が開かれるという考え方である。頓という字は早いという意味である。漸悟というのはかなり長い時間をかけて、少しずつ悟つて行くという考え方である。しかし道元禅師のお考えでは,頓悟と漸悟と両方あるというお考えであつたと考えられる。何故かと云うというと道元禅師は正法眼蔵の中で、修証一等という言葉を使われて、坐禅をすること(修)は、証(さとる)ことと全く同じ一つの事実であると云つておられるからである。これは後に述べる行いの哲学に関する重要な原則であるから、道元禅師が頓悟の思想をお持ちになつていたことには、疑問の余地がない。しかし同じ正法眼蔵の中で、霊雲志勤禅師やじょう州従諗禅師の例を上げられながら、このお二人の大先輩が[さとり」を開かれるのに、それぞれ三十年の歳月と必要とされたと記述されているから、道元禅師の場合はそれぞれ頓悟と漸悟とを両方お認めになつて居たと考えられる。