2006年1月3日火曜日

四諦の教え(1)苦諦、集諦、滅諦、道諦

釈尊の教えが、この世の中の真実は、われわれの頭の中で作り出された思想の中にあるのではなく、またわれわれの感覚器官を通じて受け入れている外界からの刺激にあるのでもなく、真実とは現にわれわれが現在の瞬間において実行している行いと、それを取り巻く宇宙の秩序とが、一つに重なつた現実の世界そのものであると云う思想を説いたであるが,釈尊の教えはその他に,われわれが普段予想もしなかつたような様々の優れた思想を含んでいる。その代表的なものの一つが、四諦の教えである。
四諦の教えとは、苦諦,集諦,滅諦、道諦の四つを云い、その内容は苦しみの哲学,集合の哲学,自己規制の哲学、そして道義の哲学を意味する。しかしこの四諦の教えには、釈尊が亡くなつてから百年程経つた時期に成立した小乗仏教の時代には、既に通俗的な解説が行われ、小乗経典の中にも記載されている処から、かなり長期間に亘り四諦の教えに関する正しい理解の仕方として、取り扱われて来た時代がかなり続いた。それはどのような解釈であるかと云うと、(1)この世の中は苦しみの世界である。(2)苦しみの原因は欲望の存在にある。(3)したがつて欲望を滅却すれば、(4)道義が確立されるという理解の仕方であつた。しかし私はこの解説には、全く承服出来なかつた。先ずこの世の中が果たして苦しみの世界であるかどうかに付いても、即直に疑問が残つた。また苦しみの原因が欲望にあると云う理解についても、何の根拠もなしに何故そのように独断的な主張が、可能なのかを疑つた。そして人間にとつて果たして欲望を滅却する能力が、与えられているのかを疑い、そのような意味での道義に関連しても、最後の道義的な主張が、その前段階における解説を離れて、あまりにも唐突に説かれているという印象を受けた。その点では小乗時代の仏教における四諦の解説については、全く納得が行かなかつたため、私は四諦の理解の為には、可成り長年月の努力を必要とした。
しかしその後、道元禅師の書かれた正法眼蔵を読む事によつて、四諦に関する全く新しい理解が開かれて来た。七十五巻本の正法眼蔵に於いてはその第一章、九十五巻本に於いては第三章に、「現成公案」という巻があるが、その冒頭に書かれた四つの文章から成り立つている一節が、四諦そのものの教えを説いているのではないかと云う事に、気付いた事に始まる。「現成公案」の冒頭の文章とは、紙面の関係で次回に掲げる文章である。