四諦の教え(2)「現成公案」の第一節
正法眼蔵の「現成公案」における第一節の文章は,次の通りである。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり,生あり死あり、諸仏あり衆生あり。(1)
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく,生なく滅なし。(2)
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに,生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(3)
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり。(4)」
の四つの文章である。しかもこの四つの文章が、それぞれ物事の在り方について、全く立場の異なつた四つの考え方を比較対照していることが解る。すなわち(1)は「この世の中のさまざまの物事(諸法)を、釈尊の教え(仏法)を基準にして考えるという立場をとると、物事の在り方が言葉,つまり観念として現れて来て,迷いと悟りとか,実行と行いとか、生まれる事と死ぬ事とか、真実を得た人々と、まだ真実の分つて居ない一般の大衆との違いなどが分つて来る。つまり言葉を使い観念を使つて物事を区別する、観念の世界があることを述べている。しかし(2)の段階では、(1)の段階とは全く別に、観念の世界を離れてこの世の中を単に物質の世界(万法)として、主観を離れた(われにあらざる)純客観的な世界としての立場から眺めるならば、一様に物質の世界として、迷いと悟りの区別も無ければ、真実を得た人々と一般大衆との区別もなく,誕生も無ければ消滅も無い。これはわれわれがこの世の中を、原子,分子の寄り集まりとして、完全に物質的な世界として眺めるならば、迷いと悟りとの区別もなく、真実を得た人々と真実を得ていない一般大衆との区別もなく、誕生もなければ消滅もない。そしてこの(1)と(2)とは、欧米の哲学においては極めてはつきりと理解されている観念論と唯物論とを意味しているから、それほど理解する事の難しい考え方ではないと思う。
しかし(3)の立場は仏道の立場であり、世界でも他に類を見ない立場であるから、その理解に当つては可成り慎重でなければならない。何故かと云うと観念論と唯物論とは、一方の観念論は人間の心を基準にして哲学が考えられ、他方の唯物論は物質を基礎にして哲学が考えられているけれども、何れも人間の理知に頼つて考えられた哲学であるから、脳細胞の働きに頼つて理解するならば、必ずしも理解の不可能な哲学ではない。しかし(3)の行いの哲学および(4)の道義の哲学に関しては、単に人間の思考から生まれた哲学では無く,人間の行いを主体とする実践の哲学であるから、(1)と(2)の理知の哲学と(3)と(4)の実践の哲学との間には、非常に大きな次元的な断層ある事を,覚悟して置かなければならない。
そこで(3)においては、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、」という前提をおいて、実践の世界における現実の生存や消滅が実在し、現実の迷いや悟りが実在し、現実の一般大衆や現実の真実を得られた人々の実在することが強調されている。
そして(4)の段階では、哲学的な論議を離れて、現実そのものが極めて実践的な描写で表現されている。それが「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌のおふるのみなり。」という言葉になつている。現実は現実でしかないという意味である。
しかも道元禅師はこのような四段階の論法を,殆ど例外なしに正法眼蔵の全巻に亘つて使つておられる。そしてそのような複雑な論法が、何故使われたかを考えて見ると、それは例外なしに現実そのものが,極めて複雑な内容を含んでいるのであつて,事実上,現実を主題とする仏教哲学は、四諦の教えを活用するのでなければ,到底説く事の不可能な哲学であると云える。
なお欧米の哲学においても、弁証法と云う哲学に関する思考方法があり、特にヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法とが有名であるが、何処が違うかと云うならば,欧米の弁証法においては,正−反ー合という三段階の論法が説かれているのに対して,仏教哲学の弁証法においては、正ー反−合−実という四段階の弁証法が説かれている。恐らく現実を最終の結論とする仏教哲学においては、最終段階の哲学として現実そのものを説く必要があつたからであろう。
原始経典の記述として、釈尊がその最初の説法として四諦の教えを説こうとした際に、あまりにも難解であると感じて、四諦の教えの説法を躊躇されたと伝えられているけれども,21世紀の今日でさえ、その真意を知る事の難しい四諦の教えに関連して、それが説法として残されたことに就いては,非常に大きな感謝を感ぜざるをえない。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり,生あり死あり、諸仏あり衆生あり。(1)
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく,生なく滅なし。(2)
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに,生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(3)
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり。(4)」
の四つの文章である。しかもこの四つの文章が、それぞれ物事の在り方について、全く立場の異なつた四つの考え方を比較対照していることが解る。すなわち(1)は「この世の中のさまざまの物事(諸法)を、釈尊の教え(仏法)を基準にして考えるという立場をとると、物事の在り方が言葉,つまり観念として現れて来て,迷いと悟りとか,実行と行いとか、生まれる事と死ぬ事とか、真実を得た人々と、まだ真実の分つて居ない一般の大衆との違いなどが分つて来る。つまり言葉を使い観念を使つて物事を区別する、観念の世界があることを述べている。しかし(2)の段階では、(1)の段階とは全く別に、観念の世界を離れてこの世の中を単に物質の世界(万法)として、主観を離れた(われにあらざる)純客観的な世界としての立場から眺めるならば、一様に物質の世界として、迷いと悟りの区別も無ければ、真実を得た人々と一般大衆との区別もなく,誕生も無ければ消滅も無い。これはわれわれがこの世の中を、原子,分子の寄り集まりとして、完全に物質的な世界として眺めるならば、迷いと悟りとの区別もなく、真実を得た人々と真実を得ていない一般大衆との区別もなく、誕生もなければ消滅もない。そしてこの(1)と(2)とは、欧米の哲学においては極めてはつきりと理解されている観念論と唯物論とを意味しているから、それほど理解する事の難しい考え方ではないと思う。
しかし(3)の立場は仏道の立場であり、世界でも他に類を見ない立場であるから、その理解に当つては可成り慎重でなければならない。何故かと云うと観念論と唯物論とは、一方の観念論は人間の心を基準にして哲学が考えられ、他方の唯物論は物質を基礎にして哲学が考えられているけれども、何れも人間の理知に頼つて考えられた哲学であるから、脳細胞の働きに頼つて理解するならば、必ずしも理解の不可能な哲学ではない。しかし(3)の行いの哲学および(4)の道義の哲学に関しては、単に人間の思考から生まれた哲学では無く,人間の行いを主体とする実践の哲学であるから、(1)と(2)の理知の哲学と(3)と(4)の実践の哲学との間には、非常に大きな次元的な断層ある事を,覚悟して置かなければならない。
そこで(3)においては、「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、」という前提をおいて、実践の世界における現実の生存や消滅が実在し、現実の迷いや悟りが実在し、現実の一般大衆や現実の真実を得られた人々の実在することが強調されている。
そして(4)の段階では、哲学的な論議を離れて、現実そのものが極めて実践的な描写で表現されている。それが「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌のおふるのみなり。」という言葉になつている。現実は現実でしかないという意味である。
しかも道元禅師はこのような四段階の論法を,殆ど例外なしに正法眼蔵の全巻に亘つて使つておられる。そしてそのような複雑な論法が、何故使われたかを考えて見ると、それは例外なしに現実そのものが,極めて複雑な内容を含んでいるのであつて,事実上,現実を主題とする仏教哲学は、四諦の教えを活用するのでなければ,到底説く事の不可能な哲学であると云える。
なお欧米の哲学においても、弁証法と云う哲学に関する思考方法があり、特にヘーゲルの弁証法とマルクスの弁証法とが有名であるが、何処が違うかと云うならば,欧米の弁証法においては,正−反ー合という三段階の論法が説かれているのに対して,仏教哲学の弁証法においては、正ー反−合−実という四段階の弁証法が説かれている。恐らく現実を最終の結論とする仏教哲学においては、最終段階の哲学として現実そのものを説く必要があつたからであろう。
原始経典の記述として、釈尊がその最初の説法として四諦の教えを説こうとした際に、あまりにも難解であると感じて、四諦の教えの説法を躊躇されたと伝えられているけれども,21世紀の今日でさえ、その真意を知る事の難しい四諦の教えに関連して、それが説法として残されたことに就いては,非常に大きな感謝を感ぜざるをえない。
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