2006年1月15日日曜日

因果の理法(2)悪因の実例

私は駒沢大学の宗学大会で正法眼蔵の九十五巻全巻を、苦、集、滅、道、の四つの基準に従つて分類した記憶があるが、その際に、「因果の理法」については、苦諦の立場としては「深信因果」(89)、集諦の立場としては「四禅比丘」(90)、滅諦の立場としては「三時の業」(84)、道諦の立場としては「大修行」(76)の巻を選んだ。「深信因果」については前回に述べたが、集諦の立場に該当する「四禅比丘」に付いて述べて見ると、因果関係に関連して、最も人生にとつて障害になると考えられるものが、列記されている。この「四禅比丘」の巻は、道元禅師が亡くなつた際,未定稿として残されたものであるから、完成されたものと見ることは出来ないがけれども、道元禅師が因果関係に関連して、どのような原因を最も警戒すべきものとして、考えておられたかが解る。
1)ある僧侶が坐禅における四つの境地を経過しただけであつたにも拘らず、それを人生における四つの段階を経過したと誤解し、死去に当つてそれに伴う情景が現れなかつた為に,釈尊に騙されたと感じた。
2)優婆鞠多尊者の弟子がが坐禅における四つの境地を経過しただけであつたにも拘らず,人生における四つの段階を経過したと思い込み、女性と間違いを犯そうとし、気が付いて見たら相手が師匠自身であつた。
3)釈尊の教えを勉強するには、その現れて来る順序を知る必要がある。
4)釈尊の教えと孔子、老子、荘子の教えと完全に別であることを知らなければならない。
5)釈尊の教えが、存在するとか存在しないとかという議論を離れた唯一の真実であることを知らなければならない。
道元禅師は,われわれが不幸に出会う最大の原因を、仏教の立場から眺めた思想上の誤りの中に見出し、そのような実例を上げておられるということは、仏教に関連して基本思想が如何に大切であるかということを、物語つて居るという点で、注目に値する。