2006年1月13日金曜日

因果の理法(1)深く因果を信ずる。

前回では釈尊の教えに関連して、先ず四諦の教えについて述べたのであるが,四諦の教えは佛教哲学の基礎理論に関する説明であるから、苦諦の領域に関する議論と考える事が出来る。しかし釈尊の教えは、すべてが苦諦,集諦、滅諦、道諦の四つの段階に応じて議論される処に、一つの特徴があるから、次の集諦の考え方を基準にしてどのような考え方が生まれて来るかというと、それは原因結果の考え方である。欧米の文化においては、ルネツサンス以降科学的な思想が急速に発達し、人類の文化を根本的に逆転させるような威力を発揮したけれども、その原因が何にあつたかを考えて見ると,それは原因結果の関係に関する100%の信仰である。科学の世界においては、この世の中の一切を実質的な集合体と考え,その実質的な集合体の中では、すべての領域に亘つて原因結果の関係が存在する事を主張している。
しかし仏教においては,単に物質的な世界だけでなく、物心両面に亘つて因果関係の存在を主張する。
例えば道元禅師の書かれた正法眼蔵の「深信因果」の巻においては、次のように述べられている。
「佛法参学には,第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。」と。
これを現代語に訳して見ると、「釈尊の教えを勉強するに当つては,一番最初に原因結果の関係を明らめるべきである。もしも因果関係を否定するようなことがあると、おそらくは利益を激しく求める間違つた考え方を起こして、よい行いを断ち切ることになるであろう。一般的に云うならば、原因結果の基本原則は明々白々としていて、個人的な利害関係とは無関係である。悪いことをしたものは堕落し、善いことをしたものは向上する点では、1000分の1、100分の1の狂いもない。」ということになる。したがつて仏道の世界では、原因結果の関係について、単に自然科学のような物質の世界だけではなく、物の世界と心の世界との両方を含む宇宙全体に、原因結果の関係が広がつていることを主張している。しかもその正確度に関しても、1000分の1、100分の1程度の誤差も認めることをしていない。このことも仏道の立場から、因果関係を考える場合の特徴であつて、仏道の立場では一分、1厘の誤差をも認めない厳密さで、原因結果の関係の存在を確信しているのである。