2006年1月10日火曜日

四諦の教え(4)欧米の文化と四諦の教え

今日、世界全体の文化の中で、どの国の文化が最も優れているかを考えてみると,やはりそれは欧米諸国の文化ではないかと考えられる。勿論、世界各国の文化にはそれぞれの特徴があり、優劣を付け難い面があるけれども,エジプトやメソポタミヤ地方やインド等で発生した文化が, やがて中近東を経て,古代ギリシャやローマに伝わり、ローマ帝国の強大な武力を背景として,ヨーロツパ全土に広がつて行つた経緯には必然的なものが感じられる。そしてその流れが中近東で発生したキリスト教信仰と合流して、カソリツク信仰の隆盛を招き、農耕生産を中心とする中世社会の禁欲的な社会構造を通じて,文化の維持に大きな貢献をしたことも、ヨーロツパ文化の一つの發展段階として,評価するべきであると思う。
しかしそのような精神主義的な流れが、ルネツサンスと呼ばれる科学的な実証主義の時代に移行することにより、欧米の文化は今度は科学的な合理主義を根幹として、偉大な科学主義の時代を建設する事に成功した。したがつて欧米の文化が、宗教的な精神主義の文化と実証主義的な科学を基礎とした文化とに対立する結果となつてはいるけれども、逆にそのような対立が文化を前進させる原動力となるような面もあつて,現に欧米の文化が他の諸文化、例えば東南アジアの文化とかイスラム文化とかに対して、多少進んでいると云わざるを得ない面があるのではないかと思われる。
しかしこの事が何を意味するかと云うならば,欧米の文化が精神主義的な禁欲主義と物質主義的な放漫主義との対立に縛られて、苦しんでいるという事を、如実に示すものである。しかしこの全く相反する二つの哲学は、同じく頭で問題を考える主知主義の世界における哲学であるから、この侭では到底和解に到達する事の出来ない完全に矛盾した主張の対立である。そこで登場する考え方が四諦の教えである。四諦の教えに関しては、苦諦と集諦という主知主義的な考え方と、滅諦と道諦という実践主義的な考え方との間に、完全に次元的な断絶がある。そして四諦の教えは仏教徒に対して,主知主義の領域を離れて、実践主義の領域に入つて行く事を要求しているのである。道元禅師の書かれた「普勧坐禅儀」の中に、「入頭の邊量に逍遥すといえども、ほとんど出身の活路をきけつす」という言葉があるけれども、これは「僅かに頭だけを問題の端の方に入れて、悠然と歩いているようには見えるけれども、身体全体が生き生きとした行為の世界に抜け出した境地が欠けている」の意味である。四諦の教えに関する一つの大きな意味は、欧米に於ける主知主義的な思想や感受作用の領域から抜け出して、行いの世界に入つて行けという趣旨である。そしてそのようにわれわれが、思想や感受作用の領域から抜け出して,行いの世界に入つて行くことが、仏教哲学の最も重要な拠点である。
仏道修行者が一日一日の日常生活に於いて,自分の行いが仏道の示す宇宙の原則と一致することが、貴重な意味を持つ。このようにして仏道修行者が、自分の行いと宇宙の原則とを一致させる処に、われわれの人生に於ける価値があり、そのような努力によつて、一切の人々が、幸福な人生を送る事が出来ると同時に、一切の人々が思想や感受作用の束縛を離れて、現実の世界に生きる事が出来るようになる。