2006年1月21日土曜日

行いの哲学(1)理論と行いとの次元的違い

仏教哲学におけるもつとも重大な特徴の一つは、理論と行いとの明快な分離である。一般的に行為を哲学上の議論として取り上げる場合には、行いも一種の概念として取り上げられ、理知的な世界における理論の問題として取り上げられることが、行為に関する哲学上の一般的な取り上げ方である。しかし仏教においては、理知の世界と行いの世界との間に、極めて明快な次元的な差異を認める処から、通常の哲学とは根本的に異なつた立場から、行いの問題が考察される。そのことを極めて明快な例え話を通じて表現した説話が、正法眼蔵の「諸悪莫作」(10)の中の説話である。
中国の有名な詩人である白居易が、ある時鳥果道林禅師に対して質問した。「釈尊の教えの根本的な趣旨は、一体どういうことでしょうか」と。道林禅師いう。『さまざまの悪いことをせず,さまざまの善いことをすることだ」と。居易云う。「その程度のことであるならば、三歳の赤子でも云うことが出来そうに思えますが。」道林禅師いう。「三歳の赤子が、仮に云うことが出来たとしても、80歳の老人になつても、実行が出来ない」と。この物語の中に、行いに関する理論と実行との次元的な相違が、隠されている。そしてこの理論と行いとの間に,実在している次元的な違いが分つて来ないと、現実の行いが分つてこないし、理論の世界と行いの世界との間にわだかまつている大きな断層に、気付くことが無い。