2006年1月19日木曜日

因果の理法(4)実践の偉大さ

因果の理法についても、その最終段階においては現実の実践に結び付いて行くのであるから、正法眼蔵においても因果関係の最終段階である「大修行」(76)の巻では「深信因果」の巻と理解の仕方が異なつている。「深信因果」の巻と「大修行」の巻とでは、共にその冒頭において、百丈禅師と野狐との間に於ける問答が語られ、「深信因果」の巻においては、野狐である老僧の述べた不落因果は,因果関係には落ちないという意味で,因果関係の否定に繋がるけれども、不昧因果は『因果に昧(くら)からざれ」の意味であつて,因果に関する肯定の意味であるから正しいと云う解説が、はつきりと付け加えられている。しかし「大修行」の巻では行為が実際に行われる現在の瞬間において、一切のものが実行されている。そこにおいては、現在の瞬間における行いがあるだけのことであるから、「不落因果」と「不昧因果」との概念上の区別も消えて、ただ現在の瞬間に於ける単純な事実が眼の前にあるということになる。原因と結果という理論的な問題も、現在の瞬間に於ける行いという立場で問題を考える時,何時の間にか『不落因果」と「不昧因果」との相違が消えて、単純な現在の瞬間に帰つて行く。