2006年1月25日水曜日

行いの哲学(2)時は今、場所は此処

現実の行いが何時現れるかと云えば、それは例外なしに今である。仏教の考え方では、現実の行いが実行される瞬間は、例外なしに現実の流れにおける現在の瞬間である。過去は既に過ぎ去つた時間に対する追憶であり、未来はまだ到来していない時間にたいする想像である。したがつてこの世の中において、現実に実在する唯一の時間は、行いの実行される現在の瞬間しかあり得ない。勿論過去、現在,未来に亘る観念として時間は、われわれの頭脳の中にあり得る。しかしわれわれの現実の行いが実際に行われる現在の瞬間だけが、現実の時間である。
それと同じように、では現実の行いは何処で行われるかを考えて見ると,これもまた現在自分が実際にいるこの場所でしかない。抽象的に考えるならば、日本もあれば、ヨーロツパもあり、アメリカ・カナダもあれば、南米もあり、北欧もあれば、アフリカもあり、東南アジアもあれば、中国、豪州、ニユージーランド等もある。しかし今自分自身が何処にいるかを考えてみると、それは誰にとつても、「此処にいる」であり,それが現実における最も正しい答えである。
したがつて中国の仏道指導者である洞山悟本大師も、「吾、常に此に於いて切なり」といわれた。「自分は何時も此処において、一所懸命である」と云われた。