現実(3)現在の瞬間における行いと宇宙
私は現実に関する(1)と(2)とにおいて、宇宙に広く行き亘つている理性と客観的な世界とを、現実に関する二つの内容として説明した。しかし現実そのものを、もつと実践的に本当の意味での現実として捉えた場合には、(1)の理性は理知的な思考における一つの解釈であり、(2)の客観的な世界もわれわれの感覚的な刺激を通じて捉えた、経験的な映像でしかない。したがつて徹底して現実的な仏教哲学においては、更に現実的な現実そのものを追求する。そしてそのように極めて現実的な立場を基礎にして捉えた現実が、現在の瞬間におけるわれわれの行いである。
仏教においては、われわれの過去における行いを、過去に於ける行いの記憶として理解し,現実の行いとして理解しない。またわれわれの未来における行いを、単に未来に対する想像として理解し、現実の行いとしては理解しない。しかも現在における行いに対する認識についてさえも、それが単に現在における認識である限り、それは飽くまでも認識そのものであつて、現実の行いそのものではあり得ないこと主張している。この主張は、古代インドの仏教僧である竜樹尊者の「中論」を読んで、始めて知つた処ではあるけれども、後に道元禅師の正法眼蔵に遡つて検討して見ると、[行佛威儀」、「身心学道」等の中に認めることの出来る思想であつた。
このように極めて純粋な現実の行いは、過去においても実在することが不可能であり、未来においても実在する可能性がない。何故かと
云うと、過去に対する記憶は想念であつて、実在ではあり得ないし、未来に対する想像も、想念であつて実在ではあり得ないからである。
現在の瞬間における現実の行いというものは、このように過去に於ける記憶や未来に対する想像とは異なる実態を持つており、この現実に於ける行いに対する考え方が、仏教哲学の全てを貫く基本構造であることを、われわれはしつかりと捉えなければならない。この現在の瞬間に於ける極めて現実的な行いの意味を、坐禅その他の行いを通して実観するのでなければ、仏道は到底われわれ自身のものにはならない。
そして「中論」の第一章、第九頌においては、
「宇宙の秩序がまだ現れていない段階では、自分自身を規制する自己管理の能力も現れては来ない。
間断のない心の働きが自己管理の状態によつて縛られていない場合には、確かな事実も全く不明確である。」
と説かれているけれども、その意味は、宇宙の秩序、したがつて宇宙自身とわれわれの自己を管理する能力、すなわちわれわれ自身が実行することの出来る、現在の瞬間における現実の行いとは、同じ事実の裏表であるという主張がある。私はこの頌を読んだ時には、最初
その意味が解からなかつたが、繰り返し読んで行く中に解つて来たことは、仏教思想の中にわれわれの現在に於ける現実の行いと、その環境としての宇宙とが、同一事実の裏表としてあり、それが現実と呼ばれる事実の実態であるとする考え方のあることに気が付いたことである。そしてこの考え方に行き着いた時に、仏教哲学がやはり一つの完全に纏まつた現実主義の思想体系であることに気が付いた。
したがつて仏教哲学の立場からするならば、われわれは過去の栄光を思い浮かべて、過去を懐かしんで見ても、実質的な意味は何も無いし、過去に犯した過ちを繰り返し繰り返し後悔して見ても、建設的なものは生まれて来ない。それと同時にまだ来ていない未来のことを考えて不安に怯えたり、まだ手に入つていない幸福を夢見て時間を空費して見ても,何の意味もない。唯、与えられた現在の瞬間を、バランスした状態で真剣に生きて行く事が,人類にとつて最も幸せな状態であることに釈尊が気付かれ、そのような教えを残すされたことが、釈尊が説かれた最大の眼目である。
人生は思想ではない、感覚的な刺激ではない、自分自身をしつかりとバランスさせて、自分らしい人生を生きて行くことに尽きる。そしてそれが、宇宙の実体である。
仏教においては、われわれの過去における行いを、過去に於ける行いの記憶として理解し,現実の行いとして理解しない。またわれわれの未来における行いを、単に未来に対する想像として理解し、現実の行いとしては理解しない。しかも現在における行いに対する認識についてさえも、それが単に現在における認識である限り、それは飽くまでも認識そのものであつて、現実の行いそのものではあり得ないこと主張している。この主張は、古代インドの仏教僧である竜樹尊者の「中論」を読んで、始めて知つた処ではあるけれども、後に道元禅師の正法眼蔵に遡つて検討して見ると、[行佛威儀」、「身心学道」等の中に認めることの出来る思想であつた。
このように極めて純粋な現実の行いは、過去においても実在することが不可能であり、未来においても実在する可能性がない。何故かと
云うと、過去に対する記憶は想念であつて、実在ではあり得ないし、未来に対する想像も、想念であつて実在ではあり得ないからである。
現在の瞬間における現実の行いというものは、このように過去に於ける記憶や未来に対する想像とは異なる実態を持つており、この現実に於ける行いに対する考え方が、仏教哲学の全てを貫く基本構造であることを、われわれはしつかりと捉えなければならない。この現在の瞬間に於ける極めて現実的な行いの意味を、坐禅その他の行いを通して実観するのでなければ、仏道は到底われわれ自身のものにはならない。
そして「中論」の第一章、第九頌においては、
「宇宙の秩序がまだ現れていない段階では、自分自身を規制する自己管理の能力も現れては来ない。
間断のない心の働きが自己管理の状態によつて縛られていない場合には、確かな事実も全く不明確である。」
と説かれているけれども、その意味は、宇宙の秩序、したがつて宇宙自身とわれわれの自己を管理する能力、すなわちわれわれ自身が実行することの出来る、現在の瞬間における現実の行いとは、同じ事実の裏表であるという主張がある。私はこの頌を読んだ時には、最初
その意味が解からなかつたが、繰り返し読んで行く中に解つて来たことは、仏教思想の中にわれわれの現在に於ける現実の行いと、その環境としての宇宙とが、同一事実の裏表としてあり、それが現実と呼ばれる事実の実態であるとする考え方のあることに気が付いたことである。そしてこの考え方に行き着いた時に、仏教哲学がやはり一つの完全に纏まつた現実主義の思想体系であることに気が付いた。
したがつて仏教哲学の立場からするならば、われわれは過去の栄光を思い浮かべて、過去を懐かしんで見ても、実質的な意味は何も無いし、過去に犯した過ちを繰り返し繰り返し後悔して見ても、建設的なものは生まれて来ない。それと同時にまだ来ていない未来のことを考えて不安に怯えたり、まだ手に入つていない幸福を夢見て時間を空費して見ても,何の意味もない。唯、与えられた現在の瞬間を、バランスした状態で真剣に生きて行く事が,人類にとつて最も幸せな状態であることに釈尊が気付かれ、そのような教えを残すされたことが、釈尊が説かれた最大の眼目である。
人生は思想ではない、感覚的な刺激ではない、自分自身をしつかりとバランスさせて、自分らしい人生を生きて行くことに尽きる。そしてそれが、宇宙の実体である。
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