2006年1月30日月曜日

現実(1)宇宙に行き亘つている理性

其処で最終的に現実とは何かという問題が登場するのであるが、仏道においては、坐禅における体験から、現実は原則として言葉では表現出来ないという解釈をとる。正法眼蔵の中にも「恁麼(いんも)」(29)という巻があるが、この[恁麼(いんも)」という言葉も、「あれ」とか「それ」とかという意味を表わす中国の俗語であり、言葉で表すことの出来ない何かを意味する。これは通常理解されているように、神秘的な不可知の世界を指すものではなく、明々白々として眼の前に展開している現実そのものが、極めて包括的な内容を含んでいるために、言葉では表現することの困難な実情を示す言葉として使われたと理解する事が出来る。
したがつて現実そのものも、四諦の教えにしたがつて、四段階の考え方によつて説明することとなるが、これに関しては,古代インドの2世紀から3世紀に掛けて活躍した竜樹尊者の「中論」の中に、極めて明快な解説がある。私は[中論」の第一章を[確かな事実に関する検証」と訳したが,表題のpratyayaは本来、信仰とか信仰内容の意味であつて、[中論」が取り上げている中心課題としての現実に関する検証である。
そして先ず第一頌では主観的な存在と客観的な存在とは,共に実在ではないという主張が行われているが、そのことは主観的な存在、すなわち頭の中で考えられた思想も、感覚器官における刺激としての興奮も、共に実在ではないという観点から、観念論哲学と唯物論哲学とが共に否定されている。それでは何も無いのかということを考えて見ると、そうではなく第二頌では四つのものの実在が肯定されている。その四つとは、理性と、客観的な世界と、現在の瞬間と、神にも似た現実である。つまり竜樹尊者は、この世の中に実在するものとして、このわれわれが生きている宇宙の中に満ち溢れている理性と客観世界と現在の瞬間と神のような現実との実在を認めている。そして大胆に第五番目のものはないと云い切つている。
そこでまず竜樹尊者が最初の実在として捉えている理性であるが、現にわれわれがその中に生きている宇宙そのものが、理性と呼ばれる理論によつて貫かれているという主張である。その点ではAの人が考えた場合でも、一足す一は二であり、Bの人が考えた場合でも、一足す一は二である。このような理性的な秩序が、宇宙全体に漲つて居るという主張が、仏教思想としての最初の考え方として観取される。
古代ギリシャにおいてもプラトンの唱えた観念論には、同じような主張が含まれているが、仏教の場合には、単に観念論的な捉え方だけでなしに、外界の世界の実在を認め、行いの舞台としての現在の瞬間を認め、さらにそれらの綜合としての現実を認めた処に、仏教思想としての特徴が認められる。