2006年2月2日木曜日

現実(2)客観的な世界

佛教哲学においては、現実についてもその第一段階において、この宇宙に満ちあふれている理性そのものを指すのであるが、その次の段階としては、われわれが現にその中に住んでいる客観世界を問題とする。観念論や唯物論のように問題を単に理知的な立場だけで考える場合には、宇宙を理性の遍在する世界として捉えた場合、それが同時に物質の集結した物の世界として考えることを許されない。しかし現実そのものを基礎とする仏教哲学においては、釈尊の説かれた四諦の教えにしたがつて、当然、反対側の側面、すなわち客観的な世界の側面からも捉える必要がある。
仏道の立場から考えるならば、現実はわれわれが現に眼の前に見ている客観的な世界そのもでもある。太陽系と呼ばれる太陽を中心とした天体の中の一つである、地球と呼ばれる惑星の表面に発生した人類の文化も、また一つの現実である。そしてわれわれ人類はその地球と呼ばれる天体の表面で、少なくとも数千年以上の歴史を形成し続けて来たが、21世紀の現在に於いても、われわれは以前として、歴史的な現実を生きている。
そしてそのような現実の中で、私が非常に感謝している一点は、1991年にソヴィエツト連邦とアメリカ合衆国とが、第三次世界大戦を回避して呉れたことである。それ以前には私は、世界の情勢から考えて第三次世界大戦は回避することが出来ないと判断し、もし第三次世界大戦が起きた場合、地球の表面の数十%は、廃墟になるであろうと覚悟していた。何故かというと1945年の広島、長崎においても、われわれが実際に受けた原子兵器の被害は、われわれの想像を絶するものであつた。しかもその時代から既に60数年を経過した今日においては、その間における原子兵器の発達も、われわれが想像する範囲を遥かに超えているであろう。したがつて、もしも米ソの間で原子兵器が実際に使われた場合には、その被害の程度を想像することが、不可能な程度のものであつたであろう。したがつてアメリカ政府とソ連政府との努力により、第三次世界大戦が回避されたことは、大変有り難いことであつた。本当に心の底から喜ぶことが出来た。人類は自分達が開発した原子兵器を使つて自滅する程、馬鹿ではないことを確認することが出来た。
私は世界の歴史に対して奇妙な見方をしている。それは世界の歴史を、スポーツのトーナメント方式による大会における争いと同じような組織と見る見方である。古代社会に於いては無数の小民族があり、それぞれがそれぞれの特異な文化を持つており、それらの小民族の間で、文化の優劣に関する争いがあると、最終的には双方の民族が武力抗争をし、強い方つまり文化的水準の高い方が勝ち残るという過程が、何回となく繰り返されたという理解の仕方である。その結果、世界最終の決勝戦における最終の当事者として登場した二国が、アメリカとソ連であり、そのトーナメント方式の争いにおける優勝戦の勝利者が、アメリカであつたという見方である。
そしてもしもそれが歴史的な事実であるとするならば、われわれは世界の最終戦はすでに終わつたと考える事が出来る。したがつてアメリカは、その強大な軍隊を自国及び世界の警察に変える事が出来る。その他の各国もその軍隊をそれぞれの国の警察にすると共に、世界の警察としても協力する事が出来る。
私は原子兵器が将来、地球の表面において使われる事は恐らくあり得ないという見方をしている。何故かというと既に60年程以前にはなるけれども、その時でさえ想像もできないような被害を齎した原子兵器を、更にもう一度使つて見ようと云う意思を持つ程、人類が愚劣であるとは、到底想像する事が出来ないからである。現在の世界にとつて最も重要な問題の一つは原子兵器である。しかし人々は、それがあまりにも脅威であり,恐怖の対照となつている処から,正面切つてその議論をすることを好まない。しかし仏道としてはそのような非現実的な態度を許さない。仏教徒はその中心的な現実主義の考え方にしたがつて、常に実践的な態度を取るべきである。勿論、原子兵器の問題は、単なる一例に過ぎないが、われわれは日常生活における一切の問題に直接触れ、それを飽くまでも現実の問題として解決する義務がある。