2006年5月17日水曜日

坐禅(2)坐禅の科学的な解明

(坐禅と自律神経)最近でこそアメリカを中心にして、坐禅の修行内容が、人間の誰の体内にも存在する自律神経と、密切な関係があるのではないかという理論が,しきりに聞かれるようになつたが、私がその問題に気付き始めたのは、今から凡そ60年位以前のことであつたと思う。私はその頃既に、坐禅というものに非常な関心を示しており、実際に坐禅もしており、また沢木興道老師の説法が行われる会場には、事情の許す限り出席するという努力を重ねていた時代であるが、それと同時に西洋心理学のジグムンド・フロイトが発見した無意識とか半意識とかというという考え方と、坐禅の修行とが非常に深い関係にあるのではないかと、思い始めた時期であつた。またフロイトの系統に属するアメリカの心理学者であつたカール・メニンガーという著者が書いた[人間の心」とか、「己れに背くもの」とか、[愛憎」とかという著作(何れも日本教文社発行)に親しみ、坐禅の主張する[自受用三昧」という境地が、フロイト心理学における自律神経のバランスと同じものであろうという仮説を持つて居た。
云うまでもなくその当時は、科学的に立証された理論ではなく、心理学とは殆ど無関係な一佛教僧の私がその当時、観じ取つた全くの仮説であつたから、無条件に正しいという主張の出来る科学理論ではなかつたけれども、私はその当時から、私が秘かに抱いていた、坐禅における自受用三昧と自律神経のバランスとが同じものであるという仮説は、何れ科学的にも必ず立証されるであろうと云う事に付き、非常に強い確信を抱いていた。しかし私がそのような仮説を抱いてから2〜30年位の間は、そのような単なる仮説が、科学的にも立証されるという兆候が殆ど見られず、意外な観を深くしていたのであるが、逆に此処30年位に亘つては、私が秘かに暖めていた仮説が、医学、心理学、生理学等の専門家によつて、次々に肯定されるようになり、私としても長年抱き続けて来た仮説が、科学的にも証明され始めて来たことについて、秘かに非常な喜びを味わつている。
(宗教と科学)従来、人間界の文化が、精神的な宗教の世界と物質的な科学の世界とに分かれ、両者が互いに相容れない別個の原理によつて支配されていた時代があつたけれども、佛教的な現実主義の時代が到来し、精神と物質、したがつて宗教と科学とを別個の原理によつて処理することの許されない時代が到来しつつある以上、われわれは宗教と科学との関係に関しても、従来とは全く異なつた考え方で対処する必要があるように思う。
従来のように、宗教に関連した事項であるから、科学的な原理の支配を受けないという主張は許されない。それと同時に、科学的な探究が100%完成したということが云える段階に到達したとは、まだ到底云えない時代であるから、未発達の部分もまだ非常に多い科学思想を絶対視して、宗教的な思想の全てを否定する事も許されない。したがつて人類は、自律神経のバランスした状態を基準として、直観的に得られた正しい判断を基準にして、日常生活を生きる必要がある。勿論今日までの処、直観的な判断に対する信仰を持たない、欧米文化の基準に頼るならば、仏道のように坐禅を信じ、自律神経のバランスを信じて、一生を過ごすことは危険である。そこで坐禅を信ずるか信じないかという決断が分かれて来る。しかし仏道を信ずるわれわれ仏教徒としては、坐禅を信ずるという選択に一生を掛ける必要がある。したがつて仏道を信ずるといつて見ても、それは坐禅を信ずるか否かに掛かつて来る。