2006年5月12日金曜日

坐禅(1)坐禅とヨーガ

(仏道修行とヨーガ)坐禅は釈尊が始めて実行された修行法であるが、釈尊が坐禅を始められる数百年以前から、ヨーガと呼ばれる古代インド特有の修行法があつた。しかし仏教とヨーガとの修行法の背景に存在する哲学は、決定的に異なつているから、両者を同一視することは許されない。
(思想的遍歴)釈尊は世界のどの文明の中にも、殆ど例外なしに存在する観念論(常見外道)と(断見外道)との相剋に気付き、その対立を根本的に解決するのでなければ、人類は決して幸福になれないことに気付かれた。しかしこの問題の解決は、一般的に云つて釈尊以外には成功された事のない難事業であるから、釈尊といえども釈尊の全生涯を掛けて達成するのでなければ、到底成功する事のない困難な大事業であつたと云える。
釈尊は先ず最初に、真実というものは、人間が物事を考える能力を使い,この世の中の真実を脳細胞の働きを通じて、理性的な方法で掴むものだあると考え、実際にそのような方法を選んだ。即ちそのような方法を選んで人々を教えている師匠として、釈尊は先ず最初にアーラーラ・カーラーマを訊ね、「人間は誰でも本来何も持つてはいない」という考え方を、身に付けることに努力したが、人間が何らかの思想を持つことが、人間を悩みから救い出すことには成らない事に気が付いた。ついで同じような態度で、釈尊はラーマの子・ウツダカに就いて、「何も考えない、何も考えないということも考えない」という思想を教えられたが、この場合にも人は単に思想だけでは救う事が出来ないことを知らされた。
(苦行)そこで釈尊は、自分が何らかの思想を得る事によつて真実を得、幸福を得る事が出来ると考えたいたことが、実際には存在しないことに気が付いた。したがつて今度は別の道を選ぶことにした。それまでは人間の頭脳の働きを信じていた為に、真実に到達出来なかつた事を反省して、今度は思想ではなく肉体的な努力にたよつて、真実を得ようとした。この方法に関しても、古代インドにおいては古くから、人間の欲望を極端に押さえて人間の肉体を苦しめ、肉体的な欲望を殆ど抹殺した時に、人間は真実に到達するという考え方があつたけれども、釈尊は自分自身でそのような苦業の生活を、完全に妥協をしない形で実践し、人間がそのような苦行を続けるならば、身心が次第に衰えて思想的にも不安定になり、肉体的にもはつきりした限界があることを、自分自身の苦しい体験を通して知らされた。そして釈尊は自分自身の努力により、苦行の実際を経験した結果、苦行が決して真実を得るための手段にならないことを確認した上で、潔く苦行を捨てる決心をした。苦業を一緒にしていた苦行僧達は、釈尊が到頭苦業を我慢することが出来なくなつたと誤解し、釈尊を軽蔑し嘲笑したけれども、釈尊の胸中にあるものは、そのように小さな虚栄や恥辱の問題ではなかつたから、落ち着いた態度で苦行の場所を、立ち去つたことであろう。
(坐禅の修行)苦行直後の病み衰えた身体で、ナイランジャナー河の畔をとぼとぼと歩いていると、釈尊のあまりにも衰弱した姿を見かねたスジャーターという村の娘が、動物の乳で作つた粥を寄進して呉れた。長い期間に亘つて殆ど絶食状態であつた釈尊としては、その僅かな乳粥を、如何に貴重な食物として味わつたことであろう。人間にとつて食物が如何に貴重であるかを、心の底から知り、食物を食べるということがどういうことであり、生きるということがどういうことであるかということを、強烈に実観したことであろう。
その後釈尊は、苦行の生活から完全に離れ、常識的な普通の生活を始めることとなつた。しかし何とかして宇宙の真実を掴みたいという強い希望が、釈尊を離れることは片時もなかつたから、古くからインドに伝わつているヨーガの姿勢の中から、その最高の姿勢とされている今日の坐禅と同じ姿勢を選んで、毎日実行することを始めた。今日坐禅の姿勢として採用されている結加夫坐(略字を使用)或は半加夫坐(略字を使用)がそれである。
そしてそのような修行を、数年に亘つて毎日継続していた処、ある朝、明けの明星(金星)が東の空に輝いている姿を眺めておられた時に,ふと釈尊は自分自身が、思想の世界に生きているのでもなく、感覚の世界に生きているのでもないことに気が付いた。これは不思議な経験であつた。落ち着いて考えて見れば、自分自身が、思想の世界でもなく、感覚の世界でもなく、現実の世界に生きていることは、当然の事実である。しかしわれわれは、ある場合には、不必要に物事を考えて苦しむこともあれば、ある場合には、何の理由もなしに、感覚的な刺激に溺れることもある。したがつてわれわれは、ある場合には、思想的な苦しみに追い廻され、ある場合には、感覚的な刺激の虜になつてしまう。しかしこのような二つの偏よつた状態は、馬鹿げた状態であり、そのような馬鹿げた状態に気の付く事が、人間の一生にとつて極めて大切なことである。
このようにして釈尊は、人間が思想の世界に生きているのでもなく、感覚の世界に生きているのでもなく、正に現実の世界に生きていることを確認され、その事実を基礎にして、観念論でもなく唯物論でもない、全く新しい哲学を發見された。それが仏教であり、現実主義の哲学である。