2006年7月1日土曜日

普勧坐禅儀(3)現代語訳

普勧坐禅儀は日本語で書かれた文章であるから、日本人であれば誰でも読める筈の本ではあるけれども、7、8百年前の日本文であるから、現代の若い日本人にとつては、必ずしも読み易い本ではない。そこで出来るだけ厳密な現代語訳を、若い人々のために試みて見ることとした。
(現代語訳)元来、(基本的な真実を)探究する場合には、本来、基本的な真実は、宇宙の何処にでも満ち溢れている性質のものであるから、修行をしたり体験をしたりというような努力の必要が、何処にあろう。また基本的な真実に到達する手段も、自然に何処にでも存在しているのであるから、どうして殊更に努力を費やす必要があろう。況して(われわれ仏道修行者は)身体全体が、塵や埃(に塗れた俗世間)から抜け出しているのであるから、どうして塵を払つたり埃を拭つたりすることが、何かに役立つという事を信ずることが出来よう。一般的に云うならば、(われわれのやることは、)大体において妥当な状態から離れて居ないのであるから、どうして修行というものの足の先でさえ使う必要があろう。しかし(現実の事態の中に)僅か万分の一、千分の一の食い違いがあると、(その食い違いが)天と地との隔たりのように広く広がり、間違つているとか、いや間違つていないというような争いが、ほんの僅かでも起こつて来ると、心が動顛して何が何であるか分からなくなつてしまう。仮に豊富な理解力を自慢し、直観的な判断能力も充分にあり、普通の人々とは違う別天地の判断能力を身に付け、究極の真実を自分のものにし、人間の気持ちが分かり、大空を突き上げるような意気込みを持ち、頭の中だけでは解つた積もりになつて、悠然と歩き廻つてはいるけれども、(実際には)身体ごと頭の世界から抜け出して、(自由自在に行動の出来る)行いの世界に身体ごと飛び出す事が、殆ど全く出来て居ない。況してあの祇園精舎におられた生来の天才である釈尊でさえ、きちんと坐相を正して坐禅をされた足跡が、六年に及んでいることを実際に見ることができる。また少林寺において、釈尊の心の姿を伝えておられた(達磨大師)も、壁に向かつて坐禅をされることを、9年間続けられたという評判が、今日でもわれわれの耳許に響いて来る。過去における聖者でさえ、既にこの通りである。況して現在に生きているわれわれが、どうして努力をしないという事があり得よう。このような事情から、われわれは理解力を使つて、言葉を尋ね求めたり,言語を追い掛け廻したりする理解力による努力を、暫く休止するべきである。光の向きを変えて自分自身の在り方を照らす、反省の態度を勉強するべきである。(もしもそのような態度を取るならば,)身体や心に対する意識が自然に消えて、われわれの本来持つて居る姿・形が、眼の前に現れて来るであろう。言葉で表現出来ない事態を、自分自体ではつきり掴みたいと思うならば、何よりも先ずそのような事態そのものを実行するべきである。本来、坐禅をするに当つては,静かな部屋が適当であり,食べ物や飲み物に関しても、適量であることが好ましい。さまざまの周囲の環境を、一時、完全に放棄して、一切の仕事を休止し、善悪の問題を考えず、正しいとか間違つているとかという問題に対して、関心を持つべきではない。心、意思、意識の動きを停止し、想念、思考、直観による判断を停止し、仏に成ることを意図してはならない。このような努力は、日常生活における坐る、臥るとは無関係である。普通の場合、坐禅をする場所には、坐るための敷物を厚く敷き,その上に円い布団を使う。ある場合には結跏趺坐、ある場合には半跏趺坐。結跏趺坐の場合には,先ず右の足を持ち上げて,左の腿の上に載せ、左の足を右の腿の上に載せる。半跏趺坐の場合には,只左の足を使つて、右の腿を押すのである。緩やかに衣装を上から掛け、衣類をきちんとさせる必要がある。次に右の手を左の足の上に位置付け、左の手の平を右の手の平の上に載せ、両方の親指が向かいあつて,お互いに支え合う。即坐に正しい姿勢を取り、きちんと坐つて、左に偏つたり、右に傾いたり、前に姿勢を円くしたり、後ろに反り返えつたりしてはならない。耳の線と肩の線とが平行して向かい合い、鼻と臍とが垂直に向かい合う必要がある。舌は口の上部に付け、唇と唇,歯と歯とを両方とも付け、目は必ず常に開いている必要がある。鼻から息を僅かに通し、身体の姿勢が既に整つたならば,大きく深呼吸を一つして、身体を左右に揺すり、山のように動かない姿でしつかりと坐り、実際に考えないという境地を考えよ。その考えないと云う境地は、どのようにして考えるのであろうか。それは考える事とは別である。これが坐禅に関するやり方の大切な部分である。坐禅と呼ばれる修行法は、自律神経の安定した状態を練習することではなく、坐禅している事そのものが、安らかで楽しい宇宙の原則に関する入り口である。真実を隅から隅まで極め尽くす修行であり、体験である。宇宙の秩序が既に完成され,われわれ人間を捉えたり掬つたりするような網も籠も、まだ出来て居ない以前の状態である。もしもわれわれにこの意味が分かつて来ると、竜が水を得たのと同じような状態となり、虎が山を背にして自分を守るのと、同じような状態になる。正に知るべきである。正しい宇宙の原則が、自然に現実のものとして目の前に現れ、緊張し過ぎた暗い状態も、気分の弛み過ぎた取り留めのない状態も,先ず最初に無くなつて、完全に地面に落ちてしまうことを。坐禅を終わつて、坐つた状態から立つ場合には、ゆつくりと身体を動かし、ゆつたりと落ち着いた状態で立ち上がるべきである。慌てたり乱暴であつたりしてはならない。過去における祖師方の様子を見てみると、凡人の境涯を超越し、聖者の境涯も超越してしまうような境涯も、あるいは坐禅をしながら亡くなつたり、あるいは立つた侭亡くなつたりするような事例も、皆この坐禅の修行から得られた力に、完全に依存している事を知るべきである。中国の倶抵和尚が佛道に関するどのような質問に対しても、指を一本指し出して答えに替えた態度とか、阿難陀尊者が寺院の旗竿を取り片付けている際に、この世の中の真実に気が付いたとか、竜樹尊者が仏道修行の実体を示すために、針を水の中に投げ入れたとか、文殊菩薩が鎚を打つ事によつて仏道の転機を示した等の例や、払子、握り拳、棒、「喝」という叫び声等が、仏道を教える際に使われる道具としてあるけれども、そのような事例に関する正しい状態の体験も、(全て坐禅の体験から出て来る処であつて、)物事を頭で考えたり,区分をしたりする働きによつて、理解することの出来る処ではない。況して神秘的な能力とか,修行や体験というような言葉による説明によつて、分かる処では決してない。恐らく耳に聞こえる声とか、目に見える外見とかとは違う世界での威厳のある姿であろう。どうして物事を知つたり見たりする以前の、宇宙的な原則以外のものであるというような事が、どうしてあり得よう。そのような事情であるから、正に優れた頭脳と劣つた頭脳との違いを議論することなく、頭の良い人と頭の悪い人との区別をするべきではない。仏道だけに対して専一に努力するならば、それが正に真実の探究である。修行と体験とが自然に一つに重なつて、お互いに汚し合う事がなく、進んで行く進行方向が,完全に均衡しており、恒常的である。一般的に云うならば、この世界であろうと他所の世界であろうと、西の方のインドであろうと、東の方の中国や日本であろうと,同じように仏道としての特徴を保持し、宗派としての仕来りを独占的に保持している。それは唯、坐禅をすることだけに努力をして,不動の境地に拘束されているということである。われわれ人間は、その生活環境が千差万別であるけれども、唯只坐禅をして、真実を探求するべきである。どうして自分自身の坐るべき場所を投げ捨てて,何の理由もなしに、他所の国の塵に塗れた環境を行つたり来たりする必要が何処にあろう。仮に一歩でも踏み誤ると、現在の瞬間において間違えを犯してしまう。われわれは既に人間の身体という大切な要素を、得てしまつている。したがつて大切な時間を無駄に過ごしてはならない。われわれは既に仏道における非常に大切な現在の瞬間を持つて居る。誰がその大切な瞬間を、火打石の火花のように無駄に楽しむことが出来よう。そればかりではない。われわれの肉体的な素質は、草の葉の上の露のように果敢なく,生命の運行は稲光の光のように短い。身体としての性質や生命の早さは、瞬間的に消えて行き、「あつ」と云う間に消えてしまう。謹んでお願いしたい処は、仏道を勉強しておられる高貴な人々よ、どうか長い期間に亘つて、読経や念仏のような偽物の修行に慣れ親しんで、本当の竜である坐禅に出会つた時に、その本当の竜を疑うようなことをしないで欲しい。真実を直接示し呉れる極めて具体的な坐禅の真実に努力し、学問の頂点を乗り越え、意図的な努力をしなくなつた人を尊敬し、真実を得た沢山の人々が持つて居る真実と同じ真実を実践し、沢山の祖師方が持つておられた自律神経のバランスを、正しい伝統に従つて正しく受け継ぐべきである。長い期間に亘つてそのような努力をするならば、その努力こそ、言葉では表現する事の出来ない何かであろう。非常に貴重な宝物の蔵が自然に開かれて、その貴重な宝を受け取りそれを使うことが、自由自在に出来るであろう。