2006年6月8日木曜日

普勧坐禅儀(1)解説

(建仁寺における道元禅師)道元禅師は1212年、京都の延暦寺において出家され、同寺において3年間程修行されたが、当時の延暦寺における修行が、あまりにも理論的な研究のみに傾いている事を知り、京都の建仁寺に栄西禅師を訪ね、建仁寺に移られた。
建仁寺は臨済宗に所属する寺院であつたから、道元禅師も建仁寺においては、臨済宗の修行法に従い、師匠から公案と呼ばれる、仏教哲学に関する短い例話を与えられ、坐禅の最中もそのような物語の意味を考える事に依り、いわゆる「さとり」を得ることに、努力されたことであろう。しかし道元禅師は、その頭脳の極めて明晰な方であつたから、何か特別の体験をしていないにも拘らず、そのような体験を得たかのように錯覚する事が出来る程、脳細胞の働きが正確さを欠くような方ではなかつた。したがつて、道元禅師ご自身は建仁寺において、坐禅をする機会を得たけれども、いわゆる「さとり」を得たという実感をお持ちになることが、無かつたものと思われる。
其処で道元禅師は、当時の日本における坐禅の仕方が正しいか否かに疑問を持たれ、何れ中国に渡つて、中国における正しい方法に従つて坐禅をし、「さとり」を得たいと考えておられたのではないかと推察される。ところが当時、栄西禅師の後を継いで建仁寺の第二世の住職になつておられれた佛樹明全和尚も、道元禅師と同じように頭脳明晰な方であつたと見えて、自分は悟つたという確信をお持ちにならなかつたように思われる。何れにしても、明全和尚と道元禅師とは、相携えて「さとり」を開く為に、中国に行かれる事を決意された。
(中国における道元禅師と明全和尚)中国に行かれた明全和尚と道元禅師との内、明全和尚は中国に行かれてから、2年程経過した時点で病に侵され、1225年5月27日に天童山景徳寺において、亡くなられた。しかし道元禅師の場合は、正しい師匠に巡り会うために、多数の寺院を歴訪しておられたが、やはり1225年の5月1日に天童山景徳寺において、天童如浄禅師と相見され、その後1227年の秋に日本に帰国されるまでの間、天童如浄禅師の下で修行された。
ここで道元禅師が天童如浄禅師に会われたことの意味は大きい。何故かと云うと、道元禅師はそれまで京都の建仁寺で修行しておられたから、坐禅の修行に付いても、修行をする事以外に別に「さとり」があるものとばかり考え、「まだ悟れない、まだ悟れない」と考えながら、一刻も早く悟る事を考え、そのために遠く中国まで旅行して来たという事が云える。しかし中国において天童如浄禅師から与えられた教えは、正法眼蔵行持の巻にも述べられているように、「参禅は身心脱落なり。焼香、念仏、修懺、看経を用いず、只管に打坐せば、始にして得たり」であつたと云われている。その意味は、「坐禅をするということは、自律神経をバランスさせて、体と心に対する意識から脱け出すことである。唯坐禅さえするならば、体と心の意識から脱け出すことは、始めから達成されている」と云われている。そしてこの考え方が、佛教哲学の意味を考える面で、もつとも大切な考え方の一つである。坐禅は、坐禅をすることが手段で、「さとり」を得ることが目的であるという考え方ではない。坐禅は行いであるから、修行と体験とが一つに重なつて、坐禅の中に含まれている。坐禅においては、修行する事が、第一の「さとり」であり、坐禅さえ実行しておれば、第二の「さとり」は何時か到来する。
(普勧坐禅儀の執筆)道元禅師は1227年、満年齢で27歳の時に、中国における仏道修行の旅から帰国された。そして間もなく、京都の建仁寺に入られたが、其処で普勧坐禅儀を書かれたとされている。道元禅師は中国に行かれる以前にも、建仁寺において9年間、坐禅の修行をされた。したがつてその当時は、建仁寺が所属している臨済宗の思想に従い、師匠から公案と呼ばれる仏教哲学に関する短い例話を受け、その意味を考えるという方法を取りながら、坐禅の修行をされた事であろう。しかしそのような方法では、どうしても「さとり」を開く状況に到達する事が出来なかつたので、「さとり」を得るために中国に行かれたと思われる。そして天童如浄禅師から、坐禅は、坐禅すること自体が目的であるという教えを伝えられる事により、仏教哲学の究極を知る事が出来た。
そこで道元禅師はそのような意味での佛教思想を日本に伝えようとされ、正法眼蔵弁道話の中でも、「丁度重い荷物を肩に載せたような実感であつた」と云われている。そのような状況の中で、普勧坐禅儀は書かれている。したがつて普勧坐禅儀は、道元禅師にとつても極めて大切な開教宣言である。
普勧坐禅儀には、通常真筆本と呼ばれている編集と、流布本(るふぼん)と呼ばれている編集との二種類があり、真筆本については、当時中国から伝えられた新し書体の代表的な作品という意味もあつて、国宝に指定されており、その原本は現在でも、永平寺に保管されている。なお流布本がどのような経緯から作成されたかと云う問題に付いては、今日までの処あまり議論が行われていないように見受けられるけれども、私が流布本を読んだ限りでは、文章が殆ど完璧であると感じられる程推敲が行われている処から、道元禅師が最初に真筆本を御書きになつてから、何回となく道元禅師ご自身の手で推敲が行われ、今日われわれが読誦している流布本が完成されたのではないかと考えている。