2006年7月31日月曜日

ドーゲン・サンガ(2)萌芽以前

父方の祖父母

私も人類の一員である以上、何らかの形で遺伝子とそれによる因果関係の中に巻き込まれている事実を、否定する事が出来ない。したがつて自分がどのような祖父母を持ち、どのような父母の影響を受けて、今日の人生を送つているかという問題に関して、極めて僅かではあるけれども、記憶している範囲の事実を書き残して置くこととする。
父方の祖父は小金丸種美(たねみ)と云い、福岡藩の武士であつたが、福岡藩が徳川政権の維持に熱心な藩であつたにも拘らず、祖父は天皇による新政府の実現を期待する運動に参加していたため、藩政府の役人によつて拘捉され、明治維新の際には城内の牢獄におり、明治維新の実現と同時に出獄を許された。今日でも福岡市の西方に可也山(築紫富士)と呼ばれる山があり、その麓に小金丸村という村があるが、この村はかつて村全体が小金丸姓で占められていた。そしてその小金丸家には嘗て平野国臣という武士が長期に亘つて滞在し、この人物が後に、兵庫県の生野銀山において、徳川幕府を倒す運動を起こした首謀者となつた人物であるから、祖父が徳川幕府を倒す考え方を持つていたことに関しては、この平野国臣という人物の影響があつたものと思われる。
そのような事情から、祖父は明治維新後も徳富蘇峰の日本史編纂に関する助手の仕事をしており、経済的にはあまり恵まれなかつたようである。
祖母は祖父が国事に奔走しいる際に、二人の男子を女手独りで養育したが、その二男に当る人物が、私の父、巌である。祖父は獄中に居た際に小金丸姓を失つていた処から、明治維新後に福岡藩から西嶋姓を受け、西嶋姓を名乗るようになつた。

母方の祖父母

母方の祖父は寺井輔吉(すけよし)といい、徳川家の家臣であつたが、明治維新の際にはその部隊に従つて、会津まで従軍した。しかし長年信仰していた菅原道真公が夢の中に現れ、東京に戻る事を強く勧めたのでその教えに従い、やがて平沼栄蔵と呼ばれる横浜市長の下で、土木課長として勤務した。祖父は旧派の俳句の師匠でもあつたが、私の母が幼少の頃に妻が死去したため後妻を娶り、私の母はその後妻によつて養育された。



父は西嶋巌といい、明治14年の生まれであり、今日の日比谷高校の前身である東京府立第一中学に入学したけれども、卒業後、家庭の経済的な事情から、東京工手学校という高等学校級の技術専門学校を卒業せざるを得なかつた。父は学歴が低いにも拘らず実力があつたものと見えて、社会的にはかなり優れた働きをしたけれども、本人としては単に学歴が低いという事情から、人事面で不利な待遇を受けざるを得ない場合が多く、自分の息子にはこういう思いをさせたくないと、常に考えて呉れていたような様子が見受けられる。
父は工手学校を卒業後、古河財閥系の古河電線という会社に就職する事が出来た。しかし自分自身を研鑽する意味で、柔道をやつたり能をやつたりして努力をしていたようである。
父は31歳の時に、13歳下である寺井八重と結婚した。両親の新居は横浜市の平沼町にあつたが、私は母親の実家があつた岡野町で1919年に生まれた。私には上に姉が2人居た。私の後にも弟一人と妹二人とが生まれたが、弟一人と妹一人は赤子の時代に亡くなつた。
当時は第一次世界大戦前の不況期と第一次世界大戦による好況期が交錯した時代であるが、父は当時三重県の四日市にあつた東海電線という会社から招請を受け、同社に移籍する事となつた。しかし第一次世界大戦後の好景気が終わると同時に東京に戻り、亀戸ゴムと呼ばれる小規模の会社に就職し、技術者として働いた。



母は寺井輔吉の二女として成長し、神奈川高女を卒業したが、子供の教育には非常に熱心で、私も小学校時代には毎日、母に勉強を見て貰つた。ある日、「帰る」という字として昔使われていた複雑な漢字を、書く事が出来ず、非常に強く頭を叩かれた記憶が残つて居る。しかし普段は非常に優しい人であつた。しかし私が中学校を卒業する段階で、殆ど高等工業に決まり掛けていた時に、「この子は高等学校に入れて、大学を出す」という説を主張してくれたために、私は大学に行く事が出来た。