2006年8月9日水曜日

ドーゲン・サンガ(4)二人の師匠

二人の師匠

私には貴重な師匠が二人いる。一人は昭和十五年の十月に開設された天曉禅苑の接心で、始めてご提唱を聞く事の出来た沢木興道老師であり、他の一人は、沢木老師が遷化された後に、本師となつて頂いた丹羽廉芳禅師である。

沢木興道老師

昭和十五年の十月に沢木興道老師が、栃木県の大中寺において、一週間程度の接心をされるという情報を得て、当時日本の食糧事情がかなり悪くなつていたので、米を持参で参加した。朝は三時起床で、四十五分ずつの坐禅が、朝二回、午前二回、午後二回、夜一回という坐禅が行われたと記憶している。そして午前と午後との二回、沢木老師のご提唱があつたが、その仏道講話には、非常な感動を覚えた。
講本は道元禅師が中国から帰国され、最初にお書きになつた普勧坐禅儀であつたが、その解説の的確さと正確さに就いては、即座に脱帽した。特に奈良朝時代に東大寺等を中心にして行われた法相宗の哲学を明確に理解しておられ、われわれの日常生活における実例を取り上げながら、非常に水準の高い講義をされた。

しかしながら、沢木老師の本当の素晴らしさは、沢木老師が持つておられた仏道に対する純粋な探究の態度であつたと思う。正法眼蔵の重雲堂式の巻に、「道心ありて名利をなげすてんひと,いるべし。いたつ”らに、まことなからんもの、いるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし、童心ひそかにおこれば、名利たちどころに解脱するものなり。」とある。その意味は、「真実を知りたいという志を持つていて、名誉や利得を投げ捨ててしまうような人が、入ることができる。仮にも真心のないものは、入つてはいけない。仮に間違つて入つてしまつた場合でも、検討した上で追い出すべきである」と云われているのである。そして沢木老師は、仏道修行が名誉の追求でもなければ、利得の追求でもない事を、腹の底から知つておられた。したがつて老師の日常生活における態度は、純粋そのものであつた。私自身も、もしも沢木老師にお会いする機会がなかつたならば、私自身が佛道を知る事も、一生有り得なかつたであろうと思われる。沢木老師の仏道は、それほど純粋であり、しかも理論的にそれ程筋の通つた思想体系であつた。第二次世界大戦後に、アメリカの著作家でヴィクトリヤという人が、沢木老師も含めて日本の佛教僧が、第二次世界大戦に協力的であり過ぎたという趣旨の本を書いているが、これは現実の歴史の中で、戦争に参加した国の国民が如何にその態度に苦しむかという実情を、知らない人物の観念論的な著作であつて、あまり問題にする意味を持つていないと見ている。

丹羽廉芳禅師

佛道を勉強するに当つて非常に大きな恩恵を受けた他のもう一人の師匠が、後に永平寺の管長さんに成られた丹羽廉芳禅師である。私は十六歳の頃から、道元禅師の思想、特に正法眼蔵に非常に強い関心を持ち、暇ある毎にそれを読むという生活を続けて来たのであるが、やがて「現代語訳正法眼蔵」を執筆し始め、それが完成すると、昭和四十五年の十一月に第一巻を出版し始めた。そして昭和四十六年の五月頃から、当時東京帝国大学の佛教青年会理事長をしておられた平川彰先生にお願いして、同佛教青年会で正法眼蔵の講義を始めさせて頂いた。そしてその時点で、自分も仏道の講義をさせて頂く以上、正式の僧侶になるべきであると考えたが、当時既に沢木興道老師は他界しておられた。そこで何らかの伝手を求めて、私を弟子として受け入れて頂ける師匠を求めたのであるが、幸いにして官立静岡高等学校の卒業生名簿の中に、当時永平寺の監院老師として西麻布の永平寺別院におられた丹羽老師のお名前を発見した。
そこで早速西麻布の永平寺別院に丹羽老師をお訪ねして、弟子にして頂きたい旨を申し上げた処、丹羽老師は私の出家を即座にお許し下さつた。そしてその際にはらはらと涙を流されたが、今から考えて見ると、同じ静岡高等学校の十四年後の後輩が、佛教僧になることを喜んで下さつたとも考えられる。私は当時既に日本証券金融という会社で役職者の地位に居たので、僧侶としての修行に関しても、特別に優遇の措置を受ける事が出来たように思う。
丹羽老師の弟子になつてからは、永平寺の別院においても、坐禅の指導と正法眼蔵の講義を、一般の人々に対して行うようになつた。開催日が木曜日であつた処から、私は午後の仕事を早めに切り上げて、指導の為に駆けつけるということを、毎週繰り返していた。その際私は僧侶の服装に着替える時間がなかつた処から、背広姿の上着を脱ぎ、ワイシャツの上にお袈裟を掛けて坐禅をし、講義をしていた。処が永平寺別院の修行僧達が相談して、寺院内の僧侶として如何にも服装が整わないので、止めさせて欲しいということを、丹羽老師に対して御願いした。その時に丹羽老師から、「インド・スタイルで、いいではないか」というご意見を頂く事が出来たので、ワイシャツ姿で正法眼蔵の講義を続ける事が許されたというようなこともあつた。
その後、私の講義を聞いておられる人々の為に、永平寺別院においても、毎年八月の末に、三泊四日の坐禅会を行うようになり、それがやがて丹羽老師の自房である静岡の洞慶院においても行われるようになると共に、同じような坐禅会が、日本に滞在している外国人の為に、英語を使つて開催されるようにもなつた。また株式会社井田両国堂さんの従業員のために、年四回に亘つて坐禅会が実施されるようになり、いずれの会合もそのが数十年続く結果となつた。
丹羽老師は後に永平寺の管長さんになられたので、ここからは禅師の肩書きを使わして頂くと、丹羽禅師は、明治三十八年二月に、今日の静岡県の修善寺町で、塩谷加藤太氏の三男として誕生された。父は小学校の校長職を何校か経験された教育者であり、母は農業によつて家計を支える努力をされた。禅師は男女十人の兄弟の中の一人であつたが、ご自分を懐古されて女の子と遊ぶ事を好む、大人しい性格であつたと述べておられる。しかし修善寺に通う僧侶の姿に憧れて、僧侶になる希望を持ち、十一歳の時に僧侶になる希望を述べ、叔父に当る丹羽佛庵老師が、洞慶院の住職をされていた処から、佛庵老師の養子となり、小学校は洞慶院から通う結果となつた。中学は韮山中学を選ばれたが、高等学校は官立静岡高校に入学されたので、再び洞慶院から通学する結果となつた。
大学に入学する際に、佛庵老師から法学部に入ることを希望されたけれども、「自分は仏道一筋の生涯を送りたいので、印度哲学科に入学したい」という希望を述べ、許されたと話しておられた。佛庵老師としては、宗門の中でもいろいろと法律知識を必要とする事務があつた処から、そのような希望を持たれたものであろう。
東京帝国大学、印度哲学科一年の夏休みに、正式に修行僧の支度を整えて、永平寺に上山された。次いで大学卒業後、洞慶院において監司をされたが、京都の紫竹林、安泰寺に滞在され、大谷大学において浄土真宗の教えを一年間勉強された上、昭和七年十月に永平寺に上山、その後静岡の一乗寺、龍雲院を経て、昭和三十年十一月、洞慶院を継がれた。次いで昭和三十五年六月、永平寺東京別院の監院となられ、昭和六十年四月から平成五年の九月まで、大本山永平寺七十七世の貫主として仏道の普及に努力された。

丹羽禅師からは、仏道が人間の生き方の基本である事を教えられた。極めて温厚な方であり、感情的になる機会を持つ事が全くない性格の方であつた。ある夜、永平寺別院の若い修行僧達が,徹夜で酒を呑み明け方寺院に帰つて来たことがあつたが、禅師が早朝、寺の玄関に立つていて、「寝ずのお勤めご苦労さん」と云われてその侭自室に帰られたため、逆に修行僧が恐縮してその後、そのような事がなくなつたという話を聞いたことがある。
私などがたまたまご自室にご挨拶に伺うようなことがあると、ご自分でお茶を立てて下さることがあつたが、言葉ではなく動作によつて、いろいろと教えて頂くことが多かつた。
先代の秦慧玉禅師がいよいよ御危篤に成られた段階の時に、私は丹羽禅師のお部屋にお邪魔していた。その時、丹羽禅師は秦禅師の側近の方にご容態を聞いてお見舞いに伺う事を相談しておられたが、ご返事は「非常にお元気になられて、今リハビリの最中ですから、お見舞いには及びません」というご返事のようであつた。しかし丹羽禅師は,「今その病室にいる人から直接情報が入つているにも拘らず、リハビリでもないのだがなあ、」と不審の様子をしておられたが、私はその情景を拝見しながら、人間はどんな時にも嘘は付けないものであると痛感した記憶がある。それと同時に、人間社会の高位に上られる方は、情報を非常に大切にされているものであると云う事実を,非常に強く感じた。