2006年10月10日火曜日

学道用心集(4)第三 仏道は必ず行によって證入すべき事

(本文)

右、俗に曰く、学べば即ち禄その中に在りと。仏の言(のたま)わく、行(ぎょう)ずれば証その中に在りと。
未だ嘗て学ばずして禄を得る者、行ぜずして証を得る者を聞く事を得ず。
縦(たと)え行に信法頓漸(しんぽうとんぜん)の異(なる)あるも、必ず行を待って超証す。
縦(たと)え学に浅深利鈍の科(しな)有るも、必ず学を積みて禄に預かる。
是れ即ち独り王者の優と不優と、天運の応と不応とに由るべきに非ざるか。
若し学に非ずして禄を得る者ならば、誰か先王理乱の道を伝えん。
若し行に非ずして証を得る者ならば、誰か如来迷悟の法を了ぜん。
知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。
時に始めて船筏(せんばつ)の昨夢なるを知り、永く藤蛇の旧見を断ず。
是れ仏の強為(ごうい)に非ず、機の周旋せ令(し)むる所なり。
況や行の招く所は証なり。自家の宝蔵、外より来らず。
証の使う所は行なり。心地の蹤跡(しようじゃく)、豈に回転(えてん)す可(べ)けんや。
然れども若し証眼(しょうげん)を回(めぐ)らして行地を顧(かえり)みれば、一翳(いちえい)の眼(まなこ)に当たる無く、将(まさ)に見んとすれば白雲万里(はくうんばんり)。
若し行足(ぎょうそく)を挙(こ)して、證階に擬(ぎ)せば、一塵の足に受くる無く、将に踏まんとすれば天地懸(はる)かに隔たる。
是(ここ)に於いて退歩せば、仏地を勃跳(ぼつちょう)す。
天福二甲午三月九日書す。

(現代語訳)

第三、釈尊の教えは必ず行いを通して、体験的に入つて行くべきものである

上記の事については、俗世間においても、「学問をする場合には,学問をしたという事実そのものの中に、その報酬に相当する価値も、既に含まれている」と云われている。
釈尊も云われた。「修行をするならば、それを体験したことの効果は、既にそれを実行したという事実の中に含まれている」と。
未だ嘗て学問をした事が無いにも拘らず、報酬を得たという例を聞いた事が無いし、行いを実行しないにも拘らず、体験を得たという例を聞いた事が無い。
たとえ行いには、信仰を大切にするとか、実践を大切にするとか、速いとか遅いとかという種類の違いはあるとしても、必ず実行という事実があつて、体験を超越することが出来るのである。
たとえ学問の世界には、浅いとか深いとかという区別もあれば、頭がいいとか悪いとかの違いがあるかも知れないけれども、例外なしに、学問を積み重ねる事に依つて、報酬が頂けるように成るのである。此の事は唯、支配者が優れているかいないかとか、時代の流れが適応しているとかいないかとかという事で、決まるものではなかろうか。
もしも学問をしなくても報酬が得られるというような状態であるならば、誰が嘗ての帝王が持つていたような、世の中を治めたり乱したりするやり方を、後世に残す事が出来よう。
若しも修行を実際に実行する事なしに、体験を得る事が出来るものとするならば、誰が釈尊がお説きになつた迷いと悟りとに関する教えを、理解することが出来よう。
次の事を知るべきである。迷いに迷つている状況の中でも、修行を実際にやる事に依り、悟る前に体験を得ることが出来るものであることを。そのような時点で始めて、船や筏を使つて真理の世界に渡ると云う考え方が、過去の夢である事を知り、藤の蔓を見て蛇と間違えるような古い考え方を、断ち切る事が出来る。
このような行いは、釈尊が無理に努力をして達成された処では決してなく、物事に於ける現在の瞬間に於ける状況から、生まれて来るものである。
況して実際の行いの自然に招き寄せるものが、体験である。
自分の家の宝の蔵は、自分以外の処からやつて来る訳ではない。体験が活用する処は、行いそのものである。心の経過した境地を、後から変更することがどうして出来よう。
しかしながら、若しも体験を通したものの見方を使つて、行いの境地を振り返えつて見ると、一つの影でさえ眼に見えるものは何も無く、何か見ようとしても、見渡す限り白い雲が続いているだけである。
若しも行いの足跡を、体験に関する足跡であると考えるならば、足を踏み下ろそうとしても、足を支えて呉れるものが何もなく、実際に足を踏み下ろそうとしても、大空と大地との間の距離程の隔たりがある。
そのような状況の中で、自分自身に対して抑制の態度をとるならば、釈尊の境地をさえ、飛び越える事が出来る。
一二三四年三月九日に書いた。