2006年8月25日金曜日

ドーゲン・サンガ(7)仏道はたつた一つ

仏道はたつた一つ

私が何故このブログを始めたかというと、それは仏道がたつた一つしか無いという基本原則に遡るように思う。この世の中に真実が幾つあるかを考えてみた場合、真実が三つも四つもあつたとすれば,それは可笑しい。何故かと云うならば,真実はたつた一つであればこそ、真実と呼べるのであつて、真実が二つも三つもあることを信ずるのであれば、それは真実を信じていることにならない。
しかし私は,人類は皮肉にもここ何千年にも亘つて、たつた一つの真実を求めることを放棄して来たように思う。何故かというと、人類は問題を彼等の優れた頭脳に頼るか、彼等の優れた感覚器官の働きを通して理解しようとしたために,真実を精神として捉えるか物質として捉えるかという二つの道の、どちらかを選ばなければならなかつた。つまり人類は、脳細胞の働きに頼るか、感覚器官の働きに頼るかのどちらかを選ばない限り、哲学を考える事が出来なかつた。そしてこのような状況の中では、たつた一つの真実を発見することは、絶対に不可能であつた。したがつて人類は何千年にも亘つて、たつた一つの真実を求める事を諦めて来た。
ところが不思議なことに、二千数百年前に人類の中に、もしも人類が観念論と唯物論との両方を捨てない限り、人類は決してたつた一つの真実に出会うことが出来ないということに気付いた人がいた。それが釈尊である。しかしこの釈尊の考え方は余りにも難し過ぎたため、人類の殆ど全員にとつて理解する事が出来ず、したがつて東洋においてはともかく、西洋においては、やつと十九世紀の中頃から、一人二人と解る人の出始めたことが人類の実情である。
そして釈尊の教えが人類にとつて、何故そのように難しかつたかを考えてみると、人類は幸いにして哲学問題を頭で考える優れた能力を持つて居た処から、先ず極めて壮大な観念論哲学を打ち立てることが出来た。しかしそれと同時に、極めて優れた感覚器官にも恵まれて居た処から、観念論に立派に対抗出来るような唯物論哲学をも獲得する事が出来た。そしてそのように優れた観念論と優れた唯物論とを共に持つていたことが,人類に対して、われわれが現にその中に生きている現実の世界を忘れさせる結果を齎した。したがつて人類は、何千年、何万年にも亘つて現実の世界を忘れ、観念論と唯物論との極めて優れた二つの哲学に頼つて、輝かしい文化を築いて来た。
しかし十九世紀の中頃に、キルケゴールが実存主義に関する最初の提言を唱え始めて以来、人類の哲学史は現実主義と云う新しい時代に、突入し始めたと見る事が出来る。そしてそのように人類が、新しい現実主義の時代を迎えるに当つては,欧米に於ける極めて論理的な伝統に沿うために、苦諦(観念論)と集諦(唯物論)とを併置した上で、その徹底的な矛盾を指摘し、理知の世界を離れて行いの世界(滅諦)、現実の世界(道諦)に参入して行く弁証法的な四諦の教えを活用することが、今後の人類文化の發展のために不可欠であると考えている。
私がドーゲン・サンガを設立した重大な理由の一つが其処にあつた。しかも佛教の場合には,単に理論だけの問題ではなく、古くから理知の世界から行いの世界に転換するための坐禅の修行があり、しかもその理論的な裏付けが自律神経のバランスという科学的な説明として、二十世紀、二十一世紀に登場しつつある。
したがつてこのドーゲン・サンガにおいても、既に確定された理論が更に發展することはあり得るけれども、既に確定した基本原則が覆ることは、恐らく覆ることがあり得ないのではないかと見ている。そしてそのような観点から、ドーゲン・サンガにおいては、釈尊、竜樹尊者、達磨大師、道元禅師その他の祖師方が説かれた教えを忠実に伝承し、沢木老師や丹羽廉芳禅師等の祖師方の努力を長く残す事に努力している。私は佛教思想に関する限り,その内容に関しては、既に二十一世紀においては、理論的に疑問の余地がなくなつており、そのように明快な宗教的原理が、たつた一つの世界原理として世界の誰からも受け入れられるような時代は、人類にとつて長年の夢であつたが、そのように長年の夢であつたたつた一つの真実という夢が、決して夢ではなく,現実世界の社会現象の中で、毎日進行しているという見方をしている。したがつてそのような意味で、ドーゲン・サンガが極めて限定されたたつた一つ世界観を追求し主張する事も、世界的な現象の一環として許されるのではないかと云う,やや甘い考え方をして居る。

ドーゲン・サンガにおける異なつた思想の離脱

(1)マイク・クロス君の場合
マイク・クロス君との付き合いは、もう三十年以上になるかも知れない。彼は最初、空手を勉強する為に日本に来たのであるが、私が東京大学の佛教青年会で行つていた、英語による正法眼蔵の講義に参加するようになり、私の所沢にある自宅などにも寝泊まりして、熱心に佛教を勉強するようになつた。しかし彼の欧米思想を根幹とする理知的なものの考え方から抜け出すことが難しかつたためか、彼はオーストラリヤ人のエフ・マテイアス・アレキザンダーという演劇関係の仕事をしていた人が主張し始めた、アレキザンダー・テクニーク(AT)という身体の訓練を伴つた健康法を勉強するようになり、そのATが佛教思想と同じであるという主張をするようになつた。そこでマイク・クロス君と私とは、その後十年以上に亘つて、二、三日毎に一回宛質疑のやり取りをして、問題の究明に努力したのであるが、私としては最後まで、ATと仏道とを同一視することについて危険を感じたので、両者を同一視する考え方を取らない方が正しいという結論に達し、現在でもその考え方を変えていない。
このブログを始めた段階でも、同じような論争は続いたけれども、最近彼が作つた詩の内容が、佛教思想と違うことを説明したことにより、彼も納得してくれたように思う。極く最近の彼のイーメイルでは、彼の思想が以前に比べて、非常にまともになつて来たのではないかと、感ずる面がある

(2)マイケル・ラツチフオード君の場合

マイケル・ラツチフオード君の場合も、私が東京大学の佛教青年会で英語の講義を始めるようになつてから、二、三年後に、私の講義に参加するようになつた人であつたと記憶している。私の講義を聞くようになつた最初の原因は,当時彼は日本でも有数な企業である日本電機(株)の社員として働いていた人であつたが、イギリスから急に来日して、日本の企業で働くことになつた彼としては、日本における国情とイギリスにおける国情とがあまりにも違い過ぎるところから、当時日本電機(株)の職場の中で、非常に苦しい思いをしているという事情を述べる為に、当時台東区の浅草橋にあつた(株)井田両国堂の本社に私を訪ねて呉れたことが最初であり、それから私の東大佛青における英語の講義も、熱心に聞くようになつた人である。
そして書物を作る能力も非常に優れているように感じられたので、私が殆ど全額を投資してウインドベル・パブリエイションズ(有)を設立した際に、彼を経営の代表者に選んで、一切の仕事を任せることにした。そして彼自身も書物の出版に非常な能力を持つて居た処から、非常にデザインの優れた何冊かの私の著作が、彼の努力によつて誕生した。
その後私は、佛教を専門に勉強する以上、サンスクリツトは当然読めるようにならなければならないと考え、中村元先生が設立された東方学院で、現在近畿大学の教授をしておられる清島秀樹先生のサンスクリツト講義を聴講する機会があり,それが終わつてからも自分一人で、竜樹尊者の書かれた「中論」を、梵英辞典や英語で書かれたサンスクリツトの文法書を頼りに読み始めた。そのような状況が二、三年程続いた時点で、ラツチフオード君夫妻が、自分達も「中論」を勉強したという申し出をしてきたので、当時私が住んでいた市川市のドーゲン・サンガで、道場に住んでいた斎藤泰純君等も参加して、研究会を始めた。しかしそれが数ヶ月続いた時点で、ラツチフオード君があまりにも難しいので、研究会を止めたいと云つて来たので,もともとラツチフオード君の希望で始めた会でもあつたから、私はまた元に戻つて独りで翻訳を続けた。
処がその年の夏に、ラツチフオード君からアメリカのプリンストン大学で、夏休みの二ヶ月間を利用して、サンスクリツトの夏期講座があるので、ウインドベル・パブリケイションズの費用で行かして欲しいという申し出があり、同君にはいろいろと忙しい思いをして貰つているので、心良く同意した。
しかしラツチフオード君はアメリカから帰つて来ると、一,二ヶ月の間に彼自身独自の翻訳を作り上げ、その出版を希望して来たので、その内容を読んで見たけれども、私自身が理解している処とは遥かに遠かつたので、私はその本に私の名前をのせることを拒否し、その翻訳はラツチフオード君自身の単独の名前で出版された。そしてその間、私は同君の人格について、私の立場からは多少の疑問を持つようになつた。
その後ウインドベル・パブリケイションズは何冊かの出版物を出し、そろそろ利益を生む段階に近ずいたかなと思われる時期になつた時点で、突然ラツチフオード君から、ウインドベル・パブリケイションズの仕事を止めたいという申し出があつたが、よく聞いてみると会社としての運営を止めて、ラツチフオード君個人で仕事として、主版の仕事を続けて行きたいという意向のようであつた。しかし私はそのことを認める意思がなかつた。そして問題の解決には、弁護士の参加を必要とすると考えたが、幸いドーゲン・サンガのメンバーの中に、ジェームス・コーエン君という法律の専門家がいたので、同君にお願いして比較的公平な解決が出来たと理解している。
その後、昨年の春であつたと記憶しているけれども、ラツチフオード君から「自分はドーゲン・サンガの中で、やや独立の立場を取りたい」という申し出があつた。しかし私はある団体の中で、誰かが独立の立場を取りたいと希望するならば、その団体から離れればよいだけのことであつて、一定の団体に帰属していながら、独立の立場を認めるということには、賛成でなかつた。したがつてラツチフオード君に対しても、ドーゲン・サンガの中に止まつて独立の立場を保つよりも、むしろドーゲン・サンガから独立して、独自の立場を得ることの方が望ましいと考えたので、同君にそのことを勧め、同君もそうすることを納得した。その後同君からもう一度ドーゲン・サンガに復帰したいという希望が寄せられ来たけれども、今の処、状況は変わつていない。

教えの純粋さ

私がドーゲン・サンガを後世に残そうとした唯一最大の目標は、釈尊の教えがどのような教えであるかという事を確定して、それを後世に残そうとする事であつた。私は満年齢で十六歳の頃から釈尊の教えに親しみ、自分が持つて居るものの殆ど全てを犠牲にして、釈尊の教えを学び、竜樹尊者が唱えられた実在論の佛道を知り、達磨大師の存在を通じて坐禅の修行の貴重さに気付き、道元禅師の優れた思想体系を学んで来たのであるが、何とかしてそのような極めて厳密な佛道の主張を正確に表現し、坐禅の修行を通じて、実践的な現実主義の教えを説く仏道を、後世に伝えたいと考えている。
しかもこの事は、単に日本一国だけの問題ではなく、何千年、何万年となく観念論と唯物論との相剋の中で、目覚ましい発展を遂げて来た人類の文化が、いよいよ観念論と唯物論との対立を乗り越えて、現実主義を基本原則とする文化に突入する為の画期的な転機に直面しているのであるから、そのような世界情勢の中で、人類全体の運命を決定する基本原則の転換を、何とか実現するための共同作業に参加して行きたいと考えている。
仏道の用語に「一器瀉水(いつき しゃすい)」という言葉がある。これは師匠の持つて居る佛道の全ての内容が、ちょうど一つのコツプの中の水に例えられており、師匠のコツプの中の水が、一滴残らず弟子のコツプの中に移されるように、仏道に関する師匠の教えが、完全に同じ形で弟子に引き継がれて行くことを意味している。仏道における真実は常にこのようなたつた一つの真実であり、そのたつた一つの真実が、一分一厘の狂いもなく、師匠から弟子に引き継がれることを意味している。
したがつてドーゲン・サンガにおいても、そのように厳密な伝承が要求されるのであつて、ドーゲン・サンガにおいても、あれも仏道、これも仏道というような安易な態度は許されない。

ドーゲン・サンガの思想的基礎

私は比較的若い時代から、沢木興道老師の教えを通じて坐禅の貴重さに目覚め、中村元先生の精緻な佛教学等を通じて、少しずつ佛道の本当の実体と理論とを勉強して来た者であるが、特に道元禅師の正法眼蔵や坐禅の修行を通じて、釈尊の教えに直接密着する修行を続けて来た。そしてここ二十年位の間は、インドにおいて二世紀から三世紀に活躍した竜樹尊者の書かれた「中論」に対して可成り重点的に取り組んで来た。そして非常に驚いた事には,私が「中論」のサンスクリツト原典に従い、梵英辞典とサンスクリツト文法とを頼りに、克明に解読して来た限りでは、竜樹尊者の思想は明らかに観念論と唯物論との実在性を否定し、われわれ人類が何千年,何万年という歳月を費やして築き上げて来た観念論と唯物論とを壊滅させない限り、此の世の中における真実の主張である実在論は登場する余地がない事を説いている。

しかしこのような主張は、欧米に於ける過去の哲学史を考えた場合、あまりにも唐突な議論のように思われる。何故かと云うと遠く古代ギリシャ・ローマ以前の哲学は兎も角として、古代ギリシャ・ローマ以降における哲学は、十九世紀の中頃までは殆ど全てが、観念論か唯物論かの対立である。したがつて「中論」において、竜樹尊者が観念論と唯物論とを共に否定しているという議論を聞くと,仮に観念論と唯物論とを共に排除した場合、哲学の世界に何が残るのかと云う疑問が湧く。また事実問題として、十九世紀の半ば頃から実存主義哲学が現れて来る以前においては、欧米の哲学から観念論と唯物論とを取り外した場合、欧米の哲学の中には,何も残らないと云えるように思われる。

そこで登場して来るのが、佛教哲学における四諦の教えの重要さである。釈尊は佛教哲学を掴まれてから、その最初の説法において、四諦の教えを説いておられるが、この四諦の教えの中に、欧米における観念論(苦諦)と唯物論(集諦)とを対比させた上で、行為の哲学(滅諦)と現実そのもの(道諦)を付加し、人類の哲学が、理知を中心にした欧米哲学における観念論と唯物論との対立を乗り越えて、行いの哲学、実在の哲学への道を開く根拠が含まれている。そして欧米において見事に発達した極めて貴重な観念論と唯物論との両思想体系を、釈尊の説かれた四諦論を活用する事に依り、極めて整備された二十一世紀以降の世界的な思想体系として、樹立する事が可能である。この四諦論の考え方を通じて、人類は極めて精緻な観念論と唯物論とを両足に踏まえながら、完全に一元化された人類最終の哲学である実在論を、楽しむ事の出来る時代を迎える事が出来,ドーゲン・サンガは正にそのように大きな歴史的な流れの中で、その使命を果たさなければならないと考えている。

そして問題をそのように世界史的な流れの中で考えた場合、忘れてはならない重要な事項がある。それは何かというと、坐禅である。何故かというと四諦の教えは、何らの行いなしに、観念論と唯物論とが行いの哲学あるいは実在論に転換出来る事を主張している訳ではなく、人類が観念論や唯物論の世界から抜け出して、行いの哲学、現実の哲学の世界に入つて行くためには、行いの実行が不可欠である。古来から仏道が、行いの実践、即ち修行を絶対の基準とする考え方は、其処から生まれて来るのであつて、そのことが坐禅の修行が無い限り、仏道はあり得ないという考え方に繋がつて行くのである。人間が観念論や唯物論から抜け出して、自分自身が実在の世界に生きていることを体験的に確認するためには、先ず自分自身が行動の世界に入り、自律神経をバランスさせる必要がある。坐禅の修行は,坐禅の最中に頭で問題を考えて、それが解るとか解らないとかという性格の修行ではなく,坐禅の修行は自分の坐つている時の姿勢を整えて、正しい姿勢に入る事である。そしてそれによつて、われわれの自律神経がバランスすることである。われわれは交感神経が副交感神経より強い場合には、観念論から抜け出すことが出来ない。しかしそれと反対に副交感神経が交感神経より強い場合は、唯物論から抜け出す事が出来ない。したがつてわれわれは坐禅その他の行いによつて、自律神経をバランスさせることを経験しなければ、人間として生きることが出来ない。では何として生きるかというと、交感神経が強い人は神様に近い状態で生きており、副交感神経の強い人は動物に近い状態で生きる。そして人間がそのように神様に近かつたり、動物に近かつたりしている状態は、決して本当の人間の生き方ではなく、人間は毎日の坐禅によつて、自律神経を絶えずバランスさせて生きる処に、本当の人間の幸せがあることを、釈尊はわれわれに教えられた。

ドーゲン・サンガにおける生活

そのように考えて来ると、勿論、生活環境に恵まれて、特別の金銭収入を必要としない人にとつてはともかく、普通の社会生活を送りながら、同時に佛道修行をしたいと考えている人々の数も、決して少なくないと思われるところから、そのような人々に対して満足を与えることの出来る佛教教団の必要も、今日のような資本主義経済社会の状況の中では必要であると考えられる。そのような意味で、ドーゲン・サンガは設立された。したがつてドーゲン・サンガの中には、私のように実際に曹洞宗の教団に僧侶として所属している人々も何人かいるけれども、大多数の人々は、既成の宗教団体に帰属せず、ドーゲン・サンガを拠り処として、仏道修行を続けている。特に昨年の十一月二十九日から、ドーゲン・サンガ・ブログを始めて以来、ドーゲン・サンガに帰属する人々の数は、予想をしない程増えて来たし、その在り方もたつた一人で毎日の坐禅を続けている人もいれば、家族で坐禅をしている人もおり,また従来と同じように、それぞれのグループの中で坐禅をする人々の数も増えて来ている処から、ドーゲン・サンガの規模がどのように拡大し、どのような方向に発展して行くかについては、今から想像することが難しい程である。幸いなことに英語のドーゲン・サンガ・ブログについては、その管理をブラツド・ワーナー君やケヴイン・ヴォルトリン君が引き受けて呉れることを約束して呉れているので、私の死後も心配はないと考えている。何れにしてもドーゲン・サンガのような佛教教団の試みは、世界における最初の試みであるから、それがどのような形で發展していくか、簡単に予測することが出来ず、現在そして将来、ドーゲン・サンガに帰属する人々の努力に掛かつて居る。したがつてそのような意味で、出来るだけ充分な準備をして置きたいと思う。