2006年9月20日水曜日

学道用心集(1)概要

学道用心集の概要

道元禅師の入門書的な著作としては、普勧坐禅儀の他に学道用心集がある。普勧坐禅儀の方は道元禅師がお書きになつた最初の著作であるから、非常に多数の人々によつて読まれて居るように思われるけれども、学道用心集の方は、あまり多くの人によつては読まれていない恐れがある。しかし道元禅師の教えを拠り処として、仏道を勉強して行くに当つては、どうしても読んで置かなければならない著作であり、仏道修行をして行く際に、どうしても知つて置かなければならない貴重な教えが多数含まれている処から、このドーゲン・サンガ ブログにおいても、解説して置きたい。なお学道用心集については、1988年に正法眼蔵の講義を始める前に講義をした記憶が有り、その速記が「学道用心集講話」として、現在でも(株)金沢文庫(電話)03−3235−0307から発売されているので、ご覧頂ければ参考になるかと思われる。

学道用心集には次の十章が含まれている。学道用心集は本来漢文で書かれた著作であるが、今日では仮名交じり文に書き改められている場合が多いので、それに従うこととした。次に掲げる十章は一度に書かれたものではなく、個々に書かれたものが後に一冊の著作に纏められたものであると思われる。何故かというと、十章の内、第三章と第六章とにはその末尾に、夫々1234年の三月及び同じく1234年の四月に書かれたものとしての記録があるけれども、その他の章については書かれた時の日付けがない処から,夫々の章が別々に書かれ、後に集められて一冊の本になつたものではなかろうかと思われる。

第一 菩提心を発(おこ)すべき事

道元禅師は佛道を勉強するに当つて一番大切なことは、先ず第一に真実を知りたいという気持(菩提心)を持つ事であると云われている。そしてその真実を知りたいという気持が、どういう時に起こるかというと、われわれの人生が現在の瞬間において、時々刻々として実行されており、時間の立つのが如何に速いかという事が分かつた時に、真実を知りたいという気持ちが起きるものであると主張されている。

第二 正法を見聞しては必ず修習すべき事

次に道元禅師は、釈尊がお説きになつた教え,即ち仏道に出合つたならば、必ずその勉強をするべきであると云う事を強調されている。何故かと云うと、道元禅師は釈尊のお説きになつた仏道が、宇宙におけるたつた一つの真実であることを確信しておられたから、そのたつた一つの真実を追求しない限り、人間としての生涯はあり得ないと確信しておられたからである。 

第三 仏道は必ず行に依りて証入すべき事

三番目に道元禅師は、釈尊のお説きになつた教えは、頭で考えて理解したり、外界の刺激を受け入れて感じ取る教えではなく、例外なしに行いを実行することによつて、実際に観得される教えであるから、必ず佛教独特の修行法である坐禅を通じて、体験的に身体と心の両方で入つて行くべき教えであることが、説かれている。

第四 有所得の心を用(も)つて佛法を修すべからざる事

そして道元禅師は四番目には、仏道修行をする場合には、何か仏道修行以外の目的のために、仏道修行をするとゆう態度を戒め,仏道修行は仏道修行以外の目的の為に行われてはならないことが、説かれている。そしてこの事は、仏道修行が何か別の目的の為の手段ではなく、仏道修行そのものが目的であることを、意味している。

第五 参禅学道は正師を求むべき事

次に五番目では、坐禅をし仏道を勉強するに当つては,正しい師匠を求める必要のあることが説かれている。そしてもしも正しい師匠が得られない場合は、仏道は寧ろ勉強しない方が善いと云われている。此の事は仮に仏道修行に志した場合でも、正しい師匠が得られず誤つた師匠について佛道修行をする場合には、長年に亘つて誤つた教えを勉強することにより、たつた一回しかない貴重な人生を、間違つた教えの為に無駄に使う事になるから、そのように愚かな人生は絶対に送るべきでないという趣旨を強調されている。

第六 参禅に知るべき事

六番目には、坐禅の修行を実行する場合には、知つて置かなければならないことが幾つかあることを指摘し、それらを列擧しておられる。どのような事柄かというと、(1)坐禅をし仏道を勉強するということは、人間の一生における最大の事業である。(2)易しい修行を好んではならない。(3)釈尊の教えが深く大きい事を知らなければならない。(4)人生においては、心のバランスを確保し、身体による行いの調和を保つことが一番難しい。(5)仏道修行においては、感受性、理知、心の主体的な側面、心の客観的な側面等が大切なのではなく、身体と心とが調和を保つ事によつて、釈尊の説かれた真実の世界に入つて行くことが大切である。(6)年齢の高い低いは問題ではない。(7)釈尊の教えの偉大さは,更に継続されるか継続されないかによつて分かれ、実行するかしないかによつて分かれる。(8)師匠の教えを、自分の意見を固執して、自分の意見に切り替えてしまう事をやつてはならない。(9)釈尊の教えは、考え、判断、予想、直観的判断、感覚、理解とは別である。

第七 佛法を修行し出離を欣求(ごんぐ)する人は須(すべか)らく参禅すべき事

七番目の教えとして道元禅師は、釈尊の教えを実践して,俗世間の価値観から抜け出したいと思うならば、坐禅をすることが、是非必要であることを説いておられる。釈尊の教えは、単に書物を読んで解つた解らないというような、理解を中心にした教えではなく、実践を中心にした行いに関する教えであるから、坐禅その他の行いを実行して、自律神経のバランスを実際に体験して見なければ、その教えの実体を実際に味わう事が不可能である事を、道元禅師は強調しておられる。

第八 禅僧の行履(あんり)の事

八番目には、坐禅を中心にして仏道修行をする僧侶に関して、行いというものの実体が説かれている。一般に理知を中心にした哲学においては、理知の世界を離れた行いの世界に気付く事が無い。しかし行いを中心にした佛教哲学を、明確に把握しておられた道元禅師は、坐禅を中心にして行われる仏道修行僧の生活が、行いそのものの追求であることを、明確に把握しておられた。

第九 道に向つて修行すべき事

仏道修行は、釈尊がお説きになつた教え、即ち現にわれわれがその中に生きている宇宙そのものの中に漲つている真実を求める教えであるから、真実を無視して釈尊の教えが存在するということは、あり得ない。此の事を充分に承知しておられた道元禅師は、九番目の項目として仏道修行が、飽くまでも真実を求める事を中心とした努力であることを、強調されている。

第十 直下承当(じきげじょうとう)の事

直下(じきげ)とは、現在の瞬間のことを意味し、承当(じょうとう)とは、考えたり感じたりすることではなく、現在の瞬間において自律神経のバランスを、直接に体験することである。云う迄でもなく道元禅師の生きておられた時代には、われわれが現に21世紀において持つている自律神経のバランスというような理解はなかつたが、道元禅師は明確に坐禅における実体を体験として把握しておられたから、その内容を直下承当という言葉で表現されたと云える。