2006年10月8日日曜日

学道用心集(3)第二 正法を見聞(けんもん)しては必ず修習(しゅじゅう)すべき事

(本文)

右、忠臣一言を献ずれば、数(しばし)ば回天(えてん)の力あり。
仏祖一語を施(ほどこ)せば、回心(えしん)せざるの人莫(な)し。
自(おの)ずから明主(みょうしゅ)に非ずんば、忠言を容るることなく、
自ずから抜群に非ずんば、仏語を容(いる)ること無し。
回心せざるが如きは、順流生死(じゅんるしょうじ)の未だ断ぜず、
忠言を容れざるが如きは、治国徳政(ちこくとくせい)の未だ行(おこな)われざるなり。

(現代語訳)

上に述べている事の意味は、誠実な家臣が(君主に対して)一言(ひとこと)を献上することに依り、世界の情勢をひつくり返すだけの力がある。
釈尊が一つの言葉を与えた場合、物事に対する考え方を、完全に入れ替えることをしない人はいない。
(帝王は)自分自身が物事のよく分かる帝王でないと、
誠実な家臣からの真心込めた意見を受け入れる事が出来ず、(佛教徒も)自分自身が普通の人々から遥かに優れていないと、釈尊の言葉を受け入れて納得することが出来ない。
(釈尊の言葉を聞いても)物事に対する考え方を、百八十度転換することの出来ない人々は、生き死を伴う日常生活の中で、唯流れに従つて生きて行く態度を、まだ捨てていない事実を示すものであつて、(帝王が)忠実な家来の意見を採用しないことは、国を治め道徳的な政治を行う事が、まだ行われていない事を示している。