第一の「さとり」:坐禅(1)長年月に亘る誤解
嘗て私はこのブログにおいて、仏道における中心的な修行法である坐禅に関する簡単な説明を行つた記憶があるけれども、仏道に関連しては「さとり」という問題があり、この「さとり」という捉え方についてもさまざまの捉え方がある所から、この際「さとり」というものの考え方についても、出来るだけ立ち入つた説明をして置きたい。
元来、この「さとり」という考え方については、極めて長期間に亘る決定的な誤解がある。それは坐禅をする事自体が「さとり」であるという考え方ではなしに、坐禅をすること以外に別に「さとり」というものがあつて、坐禅を始めた当初は「さとつていない」けれども、長年坐禅をしていると、突然「さとり」と呼ばれるものが現れて来て、その「さとり」と呼ばれるものが現れて来た時期以降においては、その人はどんな場面に遭遇した場合でも、決して迷う事が無いと云う考え方である。
この考え方は、実にロマンテイクな美しい考え方である所から、およそ仏道に志す殆どの人々が,大抵の場合一度はこの考え方に魅せられ、必死になつて「さとる」ための努力をするのであるが、そのようにロマンッテイクな美しい夢は、人間の頭の中にはあるかも知れないけれども、地球の上には実在しないのであるから、およそ仏道に関心を持つ人々はこの問題についても、慎重に考えて置く必要がある。
527年に菩提達磨大師が坐禅の修行を中国に伝えたのであるが、その後、大祖慧可大師、鑑智僧粲大師,大医道信禅師、大満弘忍禅師を経て、第六祖である大鑑慧能禅師に伝えられた。そしてその弟子の内、南嶽懐譲禅師の系統と青原行思禅師の系統とが長く存続し、現在日本では前者は臨済宗と呼ばれ、後者は曹洞宗と呼ばれているのであるが、一般的に云うならば、臨済宗においては、ある日突然訪れる「さとり」と呼ばれる特別の現象を信じ、一方曹洞宗においては、坐禅している状態そのものを「さとり」と認め、坐禅を長期間継続する事によつて、第二の「さとり」が得られることを主張した。
頓悟と漸悟との対立とその和解
このように仏道の世界においては、「さとり」が得られる前後の事情について、臨済宗においては、「さとり」がある日突然訪れる事を主張し、その「さとり」の訪れ方を、瞬間的に到来する「さとり」という意味で、頓悟と呼んでいる。また曹洞宗においては、長年に亘る坐禅の修行によつて、次第に「さとり」に近ずくことを主張するのであるが、此の場合には「さとり」が比較的に見て、ゆつくり到来する処から,漸悟と呼ばれている。
このように仏道の世界においては、約1600年程以前から、「さとり」に関連して、それがある日突然得られるものか、或は比較的長期間に亘る修行の結果得られるものか、という基本的な対立があり、その解決は20世紀の半ばまで持ち越された。しかし20世紀の半ばに私が、仏道における「さとり」とは自律神経のバランスであることに気付き、日本語で書かれた「佛教ー第三の世界観」という書物の中で発表して以来、長年仏道の世界ではつきりしなかつた「さとり」の科学的な研究が特にアメリカで進んで来た。そして今日では佛教学全般において、仏道に於ける「さとり」が自律神経のバランスであるという見解が、日毎に定着しつつある状況であるから、「さとり」に関する科学的な検討に関しても、その結論がかなりはつきりし始めている。
道元禅師の書かれた正法眼蔵の第一章、弁道話の最初の文章に「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿褥菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧、その標準なり。」とある。そしてその意味は、「真実を得られた沢山の方々や釈尊が、何れも素晴らしい教えを一系に伝えて,最高の真実を体験するに当り、この上なく自然でしかも極めて優れた手段があつた。そしてその方法が真実を得た人から真実を得た人へと伝えられて、横道にそれる事の無かつた原因は、正に自受用三昧が、その標準だつたからである。」と説かれている。
そして此の場合、自受用という言葉の意味が極めて重要である。この自受用という言葉は、中国の佛教書の中にも屡見受けられる言葉であり、一般には他受用に対する言葉と解されているけれども、自受用、他受用という言葉の対比が、われわれの日常生活の中で何を意味するかを考えて見ると、必ずしもその意味が明確ではない。しかし20世紀以降、欧米において非常に盛んになつた心理学、生理学の成果を参考にしながら、自受用という言葉の意味を考えてみると、意外に明快な解釈が生まれて来る。それは自受用という言葉を、自受と自用との二つの言葉が一つに結合された言葉であると解し、自受という言葉が、われわれの身心の中に内包されている副交感神経の受動的な機能を意味し,逆に自用という言葉が、われわれの身心の中に内包されている交感神経の能動的な機能を意味していると解した場合、自受用三昧が自律神経の中の交感神経と副交感神経とがそれぞれ同じ強さを持つた均衡状態を意味すると考えられるからである。そしてこの理解の仕方は、最初は私の直観的な判断から生まれた単なる仮説に過ぎなかつたが、その後40数年を経過した今日においても、依然として極めて真実性の高い仮説として、世界の心理学者、生理学者の研究対象としての地位を保つて居る。
別の言葉で云えば、坐禅は状態であり、行いである。それは得られるものではなく、現在の瞬間において具体化するものであるから、仏道の世界では「無所得」と呼ばれている。
このような観点から坐禅の真意を考えて行くと、坐禅をすることは、足を組み手を組み、背骨を垂直に立てて坐る事であるから、臨済宗の考え方から見ても、坐つた瞬間から「さとり」の状態に入つた事を、認めない訳には行かない。即ち臨済宗の坐禅においても,坐禅を始めた瞬間から「さとり」の境地に入るのであるから、その意味では頓悟であり、それと同時に、その後数十年の長年月を経て、第二の「さとり」に到達するのであるから、臨済宗の坐禅においても,漸悟の要素のあることを否定できない。
一方、曹洞宗においても,坐禅をすること自体が「さとり」の状態に入ることを意味するのであるから、頓悟の坐禅であるという事が云えるし、それと同時に30年以上の歳月を経て、佛教哲学の完全な思想体系を自分のものにする事が出来るという意味で、漸悟の坐禅でもあるという事も否定する事が出来ない。
このように20世紀、21世紀における心理学、生理学の脅威的な発達により、仏道の第一の「さとり」とは、臨済宗においても曹洞宗においても、自律神経のバランスであるという理論が肯定されることにより、千数百年にも亘つて争われた頓悟と漸悟との対立も、目出たくその終止符を打つことが可能となるのである。
元来、この「さとり」という考え方については、極めて長期間に亘る決定的な誤解がある。それは坐禅をする事自体が「さとり」であるという考え方ではなしに、坐禅をすること以外に別に「さとり」というものがあつて、坐禅を始めた当初は「さとつていない」けれども、長年坐禅をしていると、突然「さとり」と呼ばれるものが現れて来て、その「さとり」と呼ばれるものが現れて来た時期以降においては、その人はどんな場面に遭遇した場合でも、決して迷う事が無いと云う考え方である。
この考え方は、実にロマンテイクな美しい考え方である所から、およそ仏道に志す殆どの人々が,大抵の場合一度はこの考え方に魅せられ、必死になつて「さとる」ための努力をするのであるが、そのようにロマンッテイクな美しい夢は、人間の頭の中にはあるかも知れないけれども、地球の上には実在しないのであるから、およそ仏道に関心を持つ人々はこの問題についても、慎重に考えて置く必要がある。
527年に菩提達磨大師が坐禅の修行を中国に伝えたのであるが、その後、大祖慧可大師、鑑智僧粲大師,大医道信禅師、大満弘忍禅師を経て、第六祖である大鑑慧能禅師に伝えられた。そしてその弟子の内、南嶽懐譲禅師の系統と青原行思禅師の系統とが長く存続し、現在日本では前者は臨済宗と呼ばれ、後者は曹洞宗と呼ばれているのであるが、一般的に云うならば、臨済宗においては、ある日突然訪れる「さとり」と呼ばれる特別の現象を信じ、一方曹洞宗においては、坐禅している状態そのものを「さとり」と認め、坐禅を長期間継続する事によつて、第二の「さとり」が得られることを主張した。
頓悟と漸悟との対立とその和解
このように仏道の世界においては、「さとり」が得られる前後の事情について、臨済宗においては、「さとり」がある日突然訪れる事を主張し、その「さとり」の訪れ方を、瞬間的に到来する「さとり」という意味で、頓悟と呼んでいる。また曹洞宗においては、長年に亘る坐禅の修行によつて、次第に「さとり」に近ずくことを主張するのであるが、此の場合には「さとり」が比較的に見て、ゆつくり到来する処から,漸悟と呼ばれている。
このように仏道の世界においては、約1600年程以前から、「さとり」に関連して、それがある日突然得られるものか、或は比較的長期間に亘る修行の結果得られるものか、という基本的な対立があり、その解決は20世紀の半ばまで持ち越された。しかし20世紀の半ばに私が、仏道における「さとり」とは自律神経のバランスであることに気付き、日本語で書かれた「佛教ー第三の世界観」という書物の中で発表して以来、長年仏道の世界ではつきりしなかつた「さとり」の科学的な研究が特にアメリカで進んで来た。そして今日では佛教学全般において、仏道に於ける「さとり」が自律神経のバランスであるという見解が、日毎に定着しつつある状況であるから、「さとり」に関する科学的な検討に関しても、その結論がかなりはつきりし始めている。
道元禅師の書かれた正法眼蔵の第一章、弁道話の最初の文章に「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿褥菩提(あのくぼだい)を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさずけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧、その標準なり。」とある。そしてその意味は、「真実を得られた沢山の方々や釈尊が、何れも素晴らしい教えを一系に伝えて,最高の真実を体験するに当り、この上なく自然でしかも極めて優れた手段があつた。そしてその方法が真実を得た人から真実を得た人へと伝えられて、横道にそれる事の無かつた原因は、正に自受用三昧が、その標準だつたからである。」と説かれている。
そして此の場合、自受用という言葉の意味が極めて重要である。この自受用という言葉は、中国の佛教書の中にも屡見受けられる言葉であり、一般には他受用に対する言葉と解されているけれども、自受用、他受用という言葉の対比が、われわれの日常生活の中で何を意味するかを考えて見ると、必ずしもその意味が明確ではない。しかし20世紀以降、欧米において非常に盛んになつた心理学、生理学の成果を参考にしながら、自受用という言葉の意味を考えてみると、意外に明快な解釈が生まれて来る。それは自受用という言葉を、自受と自用との二つの言葉が一つに結合された言葉であると解し、自受という言葉が、われわれの身心の中に内包されている副交感神経の受動的な機能を意味し,逆に自用という言葉が、われわれの身心の中に内包されている交感神経の能動的な機能を意味していると解した場合、自受用三昧が自律神経の中の交感神経と副交感神経とがそれぞれ同じ強さを持つた均衡状態を意味すると考えられるからである。そしてこの理解の仕方は、最初は私の直観的な判断から生まれた単なる仮説に過ぎなかつたが、その後40数年を経過した今日においても、依然として極めて真実性の高い仮説として、世界の心理学者、生理学者の研究対象としての地位を保つて居る。
別の言葉で云えば、坐禅は状態であり、行いである。それは得られるものではなく、現在の瞬間において具体化するものであるから、仏道の世界では「無所得」と呼ばれている。
このような観点から坐禅の真意を考えて行くと、坐禅をすることは、足を組み手を組み、背骨を垂直に立てて坐る事であるから、臨済宗の考え方から見ても、坐つた瞬間から「さとり」の状態に入つた事を、認めない訳には行かない。即ち臨済宗の坐禅においても,坐禅を始めた瞬間から「さとり」の境地に入るのであるから、その意味では頓悟であり、それと同時に、その後数十年の長年月を経て、第二の「さとり」に到達するのであるから、臨済宗の坐禅においても,漸悟の要素のあることを否定できない。
一方、曹洞宗においても,坐禅をすること自体が「さとり」の状態に入ることを意味するのであるから、頓悟の坐禅であるという事が云えるし、それと同時に30年以上の歳月を経て、佛教哲学の完全な思想体系を自分のものにする事が出来るという意味で、漸悟の坐禅でもあるという事も否定する事が出来ない。
このように20世紀、21世紀における心理学、生理学の脅威的な発達により、仏道の第一の「さとり」とは、臨済宗においても曹洞宗においても、自律神経のバランスであるという理論が肯定されることにより、千数百年にも亘つて争われた頓悟と漸悟との対立も、目出たくその終止符を打つことが可能となるのである。
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