2006年11月24日金曜日

学道用心集(11) 第十 直下承当の事

右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。
聞法は心識を遊化(ゆげ)し、坐禅は行證を左右にす。
是を以て佛道に入るに、尚ほ一を捨てて承当(じょうとう)すべからず。
夫、人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり。
勇猛と昧劣となり。
也たは動、也たは容、此の身心を以て、直に佛を證す、是れ承当なり。
所謂従来の身心を回転せず、但だ他の證に随い去るを、直下(じきげ)と名ずくるなり、承当と名
ずくるなり。
唯だ他に随い去る、所以(ゆえ)に旧見に非ざるなり。
唯だ承当し去る、所以に新巣に非ざるなり。

(現代語訳)

第十 現在の瞬間において、直接真実と出会う事

上記表題の意味は、身体や心を安定させて好ましいものを選ぶに当つては、自然に二種類の方法がある。それは師匠に弟子入りして釈尊の教えを聞く事と、坐禅の修行に努力する事とである。
釈尊の教えを聞く事によつて、心や心の状態を解放し変化させ、坐禅をする事によつて、行いや体験を自由自在に変化させる。
此のような方法で、釈尊の教えの中に入つて行くのであるが、其の場合、二つある内の一つを捨てた場合には、実体がどういうものであるかを掴むことが出来ない。
人間は元来皆、身体と心とを持つているけれども、動作には必ず強い弱いの違いがあり、それは勇敢であつて強い場合と、様子が分からず劣つている場合とである。
ある場合には動揺しており,ある場合にはゆつたりとしている。
そのような身体と心とを使つて、直接仏の状態を体験する事、それが直接真実と出会うと云う言葉の意味である。
従来自分が持つていた身体や心というものを、特別に変化させる事無く、客観世界の体験に完全に付き従つて行くことを、現在の瞬間と呼ぶのであり、現実に直接出会うと呼ぶのである。
唯、周囲の環境に完全に付き従つて行く事であるから、古い考え方に固執する事ではない。
唯、直接現実に完全に出会うことであるから、殊更に新しい環境に住まうことでもない。

(解説)

現在の瞬間において、直接真実に出会うという事は、所謂「さとり」の事を指している。そして所謂「さとり」を得るためには、二種類の努力を必要とする事が述べられている。一つは仏道の師匠について、仏道を勉強する事であり、他の一つは坐禅の修行をする事であり、その二つの内のどちらかが欠けている場合には、「さとり」は絶対に得られないことが述べられている。
そして人間は誰でも身体と心とを持つているけれども、身体の働きや心の働きには強弱の違いがある。しかしそのような個人的な違いを乗り越えて、自律神経をバランスさせ、直接真実を得た人と同じ境地を体験することが、目標を射る事であり、「さとり」である。
別の言葉で云えば、従来自分自身が持つて居た身体や心を特別に変化させる事ではなく、客観世界の体験に完全に付き従つて行く事であり、現実そのものと直接に出会う事である。
したがつてそれは、古い環境に固執する事ではないし、新しい環境の中に住む事でもなく、現在の瞬間において、最も現実的な行動を取る事である。