ドーゲン・サンガにおける日常生活の実情
ドーゲン・サンガに於ける日常生活の実情を考えて見ると、それは「行動的であること」の一語に尽きるかも知れない。何故かというと、われわれが絶えず日常生活の中で、一日二回の坐禅を励行する理由が何かと云うならば、それはわれわれの日常生活を行動的に過ごせるためである。
われわれが毎日坐禅を励行すると、われわれは絶えず自律神経のバランスさせる事が出来るようになる。そしてわれわれが自律神経を常にバランスさせるということは、われわれが常に行動出来る体勢を整えて置くことを意味する。
自律神経の内、交感神経が強い場合には、われわれの頭はよく動き、様々のことを考えるのには適しているけれども、過度に緊張して行動の取れない場合が多い。また逆に副交感神経が強いと、行動を取るだけの緊張感が欠けている処から、何時迄待つても行動が始まらない。つまり自動車の運転に喩えて云うならば、交感神経が強過ぎる時にはブレイキばかりが作動して、アクセルが働かない状態であり、副交感神経が強過ぎる時にはブレイキが効かないから、そんな車には危なくて乗れない。
このような事情から釈尊は、われわれに坐禅の修行を勧められた。毎日頻繁に坐禅をして絶えずわれわれの自律神経をバランスさせて置く事が、われわれの人生を幸福にするための王道である。われわれの交感神経が強過ぎる時には、われわれは神に近い。しかし人間は神である事を期待するべきではない。またわれわれの副交感神経が強過ぎる時には、われわれは動物に近い。しかしわれわれは動物と同じであつてはならない。われわれ人間は、崇高な人間そのものでなければならない。このような観点から、私は佛教哲学の真髄の中には、人間主義の主張が隠されていると思う。仏とは、本当の人間を意味すると理解するべきである。人類の歴史の中で、人間主義の哲学が宗教としての意味を持つ機会は、無かつたように思う。しかし今や人類は佛教哲学を正しく理解する事の依り、人類最後の哲学である人間主義を人類最後の宗教として受け入れる時代が、近ずきつつあるように思う。そしてその根底にあるものは、坐禅の修行である。坐禅をする事に依り、人類は宇宙と一体の境地を体験することが出来るのである。神である宇宙と一体化する事が出来るのである。
このように考えて来た時、われわれは佛教が主張しているさまざまの徳目に対しても、自律神経のバランスという仏道の真実に関する最終の基準を基礎として、仏道が内包しているさまざまの道義的な基準を理解する事が出来る。
例えばその代表として、釈尊が仏道に於ける基本的な徳目として、正法眼蔵の(73)三十七品菩提分法の中で説かれている八正道と、釈尊がその生涯を終わるに当つて、正法眼蔵の最後の巻(95)で説かれている八大人覚との二つを、取り上げて見よう。
(1)八正道
八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つを指す。
正見(しょうけん)とは、正しいものの見方を意味しており、考えそのものよりも、考えの基礎である考え方が正しいかどうかという問題である。釈尊が主張された現実主義を自分の信念として、確立しているかどうかという問題である。
正思惟(しょうしい)とは、正しい考え方ではなしに、正しい考えのプロセスそのものである。折角考え方の基礎が正しい場合でも、その後の考えにおけるプロセスが間違つておれば、正しい思想は生まれて来ない。したがつて、考えの基礎が大切であると同時に、その後の考えに於けるプロセスも正しくなければならない。
正語(しょうご)とは、正しい言葉の意味である。言葉とはわれわれ自身の思想を表現する音声である。仮に思想の内容が正しい場合でも、それを表現する言葉が間違つておれば、正しい思想も誤つた思想として、人々に伝承されて行く。したがつて思想というものは、その内容が正しいだけではなく、その表現も正しくなければならない。
正業(しようごう)とは、正しい行いである。釈尊の教えは、単なる言葉の説明ではなく、人間の行動を通じて具体化される、現在の瞬間における行いである。仏道の世界においては言語による説明よりも、現実の世界における実行の方が、むしろ大切である。
正命(しようみょう)とは、われわれの正しい日常生活であり、特に生活の基礎を支える職業生活の実体であり、それが道義的に見て正しいか否かが問われている。
正精進(しょうしょうじん)とは、正しい努力である。われわれ人類の生命における通常の長さは、100年を越えることが、極めて稀である。したがつてわれわれが極めて限られた長さの生涯において、何らかの意味を持つた仕事をしようとするならば、われわれはわれわれに与えられた極めて短い生命を空費する事が許されない。したがつてわれわれ人類は、誰でも日常生活において、絶えず努力をしなければならない。
正念(しょうねん)とは、正しい意識を意味する。われわれ人間は、常に日常生活において正しい意識を持つているとは限らない。われわれが偶々強過ぎる交感神経を持つている場合には、正常な状態よりもより緊張した態度を持たない訳にはいかないし、逆に偶々強過ぎる副交感神経を持つて居る場合には、正常な状態よりも寧ろリラツクスし過ぎた状態で、人生を過ごさなければならない。そしてこのような通常のバランスから外れた二つの異常な状態は、何れも本当の人生から外れた人生の空費であり、極めて残念な状態である。
正定(しようじょう)とは、人間が坐禅をしない場合に現れて来る不均衡な状態を避けるために実行する坐禅の修行であつて、人間は毎日坐禅をする事によつて、自律神経のバランスを保つことが出来、本当の人間として生きることが出来る。
このように釈尊の教えは、常に現実の生活において、自律神経をバランスさせると云う極めて実践的な努力であり、そのような日常生活における努力が、人類に真に幸福な人生を与える事を約束した教えである。したがつてドーゲン・サンガの会員における日常生活も、毎日の坐禅に頼り、絶えず自律神経をバランスさせた生活でなければならない。
(2)八大人覚
八大人覚とは、釈尊が亡くなる直前に説いたと伝えられている遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で説かれている教えであり、八大人覚とは少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論の八つを云う。
少欲(しょうよく)とは、欲望の少ない事を意味するけれども、無欲という言葉を使つていない理由は、恐らく佛教では欲望のない処には、生存の可能性がないと考えているからであろう。少欲という言葉の中には、人間にとつて欲望の存在は不可欠であるけれども、欲望の過大は避けるべきであるという主張が隠されていると解される。
知足(ちそく)という言葉の意味は、人間の欲望は無限に拡大する性質を持つているけれども、実際問題としては一定段階で満足するだけの訓練をして置かないと、処置に困る可能性があり得ることを指摘している点で、佛教が内包している現実的な判断を評価している面が見受けられる。
楽寂静(らくじゃくじょう)とは、寂しくて静かな境地を楽しむの意味であつて、人間における本来の本質的な楽しみは、自律神経がバランスして、多少の孤独感と静けさとが共存している状態であることが、主張されている。
勤精進(ごんしょうじん)とは、一所懸命に努力するの意味であつて、限りある人生を有意義に過ごす為には、寸暇を惜しんで努力する必要のあることが述べられている。人間の一生は多少の長短はあるにしても、必ずその終末の到来を予測して置かなければならない。したがつてそのような意味で、人間の一生について云うならば、努力なしに楽しい人生はあり得ない。
不忘念(ふもうねん)とは、正しい意識を亡失しないの意味であつて、自律神経がバランスしている為に、はつきりした意識が絶えず心の中に存続している状態を云う。
修禅定(しゅぜんじょう)とは、坐禅の修行を実行して行くの意味であつて、仏道修行の中心である坐禅の修行を、毎日確実に実行して行くことを意味する。仏道の世界に於いては、坐禅の修行の実践が無い限り、仏道の世界はあり得ないのであつて、単なる思考の世界や単なる感覚的な刺激の世界の中には、行為を基準とした現実の仏道が存在し得ない実情を、われわれの心の中に明記するべきである。
修智慧(しゅちえ)とは、単なる脳細胞の働きによる思考の働きではなく、自律神経がバランスしている時に現れて来る直感的な判断を意味している。したがつて修智慧とは所謂般若の智慧であることを、忘れてはならない。
不戯論(ふけろん)とは、遊戯的な議論をしないとの意味であり、議論が現実の問題と密切に関連していない場合には、議論そのものが実際に意味のある内容になつていない。そしてそのように実際的でない議論を繰り返すような努力は、実質的には何の意味もないことが主張されている。
このように八正道をとつて見ても、八大人覚をとつて見ても、仏道における道義は、観念論における論議のように、単に頭の中だけで考えられた口先だけの議論でもなければ、唯物論における議論のように、最初から道義そのものを否定する道義不在の議論でもなく、飽くまでも現在の瞬間において現実の行いと密切に関連した、行いそのものである。したがつて仏道における道義は、われわれの日常生活における現実の事実として、極めて具体的に検討して行かなければならないのであるが、そのような態度が正に本当の意味における道義との対峙であつて、ドーゲン・サンガの会員たる者は、その日常生活の上においても、そのように極めて実践的な問題として、道義に関する問題を考えて行かなければならない。。
われわれが毎日坐禅を励行すると、われわれは絶えず自律神経のバランスさせる事が出来るようになる。そしてわれわれが自律神経を常にバランスさせるということは、われわれが常に行動出来る体勢を整えて置くことを意味する。
自律神経の内、交感神経が強い場合には、われわれの頭はよく動き、様々のことを考えるのには適しているけれども、過度に緊張して行動の取れない場合が多い。また逆に副交感神経が強いと、行動を取るだけの緊張感が欠けている処から、何時迄待つても行動が始まらない。つまり自動車の運転に喩えて云うならば、交感神経が強過ぎる時にはブレイキばかりが作動して、アクセルが働かない状態であり、副交感神経が強過ぎる時にはブレイキが効かないから、そんな車には危なくて乗れない。
このような事情から釈尊は、われわれに坐禅の修行を勧められた。毎日頻繁に坐禅をして絶えずわれわれの自律神経をバランスさせて置く事が、われわれの人生を幸福にするための王道である。われわれの交感神経が強過ぎる時には、われわれは神に近い。しかし人間は神である事を期待するべきではない。またわれわれの副交感神経が強過ぎる時には、われわれは動物に近い。しかしわれわれは動物と同じであつてはならない。われわれ人間は、崇高な人間そのものでなければならない。このような観点から、私は佛教哲学の真髄の中には、人間主義の主張が隠されていると思う。仏とは、本当の人間を意味すると理解するべきである。人類の歴史の中で、人間主義の哲学が宗教としての意味を持つ機会は、無かつたように思う。しかし今や人類は佛教哲学を正しく理解する事の依り、人類最後の哲学である人間主義を人類最後の宗教として受け入れる時代が、近ずきつつあるように思う。そしてその根底にあるものは、坐禅の修行である。坐禅をする事に依り、人類は宇宙と一体の境地を体験することが出来るのである。神である宇宙と一体化する事が出来るのである。
このように考えて来た時、われわれは佛教が主張しているさまざまの徳目に対しても、自律神経のバランスという仏道の真実に関する最終の基準を基礎として、仏道が内包しているさまざまの道義的な基準を理解する事が出来る。
例えばその代表として、釈尊が仏道に於ける基本的な徳目として、正法眼蔵の(73)三十七品菩提分法の中で説かれている八正道と、釈尊がその生涯を終わるに当つて、正法眼蔵の最後の巻(95)で説かれている八大人覚との二つを、取り上げて見よう。
(1)八正道
八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つを指す。
正見(しょうけん)とは、正しいものの見方を意味しており、考えそのものよりも、考えの基礎である考え方が正しいかどうかという問題である。釈尊が主張された現実主義を自分の信念として、確立しているかどうかという問題である。
正思惟(しょうしい)とは、正しい考え方ではなしに、正しい考えのプロセスそのものである。折角考え方の基礎が正しい場合でも、その後の考えにおけるプロセスが間違つておれば、正しい思想は生まれて来ない。したがつて、考えの基礎が大切であると同時に、その後の考えに於けるプロセスも正しくなければならない。
正語(しょうご)とは、正しい言葉の意味である。言葉とはわれわれ自身の思想を表現する音声である。仮に思想の内容が正しい場合でも、それを表現する言葉が間違つておれば、正しい思想も誤つた思想として、人々に伝承されて行く。したがつて思想というものは、その内容が正しいだけではなく、その表現も正しくなければならない。
正業(しようごう)とは、正しい行いである。釈尊の教えは、単なる言葉の説明ではなく、人間の行動を通じて具体化される、現在の瞬間における行いである。仏道の世界においては言語による説明よりも、現実の世界における実行の方が、むしろ大切である。
正命(しようみょう)とは、われわれの正しい日常生活であり、特に生活の基礎を支える職業生活の実体であり、それが道義的に見て正しいか否かが問われている。
正精進(しょうしょうじん)とは、正しい努力である。われわれ人類の生命における通常の長さは、100年を越えることが、極めて稀である。したがつてわれわれが極めて限られた長さの生涯において、何らかの意味を持つた仕事をしようとするならば、われわれはわれわれに与えられた極めて短い生命を空費する事が許されない。したがつてわれわれ人類は、誰でも日常生活において、絶えず努力をしなければならない。
正念(しょうねん)とは、正しい意識を意味する。われわれ人間は、常に日常生活において正しい意識を持つているとは限らない。われわれが偶々強過ぎる交感神経を持つている場合には、正常な状態よりもより緊張した態度を持たない訳にはいかないし、逆に偶々強過ぎる副交感神経を持つて居る場合には、正常な状態よりも寧ろリラツクスし過ぎた状態で、人生を過ごさなければならない。そしてこのような通常のバランスから外れた二つの異常な状態は、何れも本当の人生から外れた人生の空費であり、極めて残念な状態である。
正定(しようじょう)とは、人間が坐禅をしない場合に現れて来る不均衡な状態を避けるために実行する坐禅の修行であつて、人間は毎日坐禅をする事によつて、自律神経のバランスを保つことが出来、本当の人間として生きることが出来る。
このように釈尊の教えは、常に現実の生活において、自律神経をバランスさせると云う極めて実践的な努力であり、そのような日常生活における努力が、人類に真に幸福な人生を与える事を約束した教えである。したがつてドーゲン・サンガの会員における日常生活も、毎日の坐禅に頼り、絶えず自律神経をバランスさせた生活でなければならない。
(2)八大人覚
八大人覚とは、釈尊が亡くなる直前に説いたと伝えられている遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で説かれている教えであり、八大人覚とは少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論の八つを云う。
少欲(しょうよく)とは、欲望の少ない事を意味するけれども、無欲という言葉を使つていない理由は、恐らく佛教では欲望のない処には、生存の可能性がないと考えているからであろう。少欲という言葉の中には、人間にとつて欲望の存在は不可欠であるけれども、欲望の過大は避けるべきであるという主張が隠されていると解される。
知足(ちそく)という言葉の意味は、人間の欲望は無限に拡大する性質を持つているけれども、実際問題としては一定段階で満足するだけの訓練をして置かないと、処置に困る可能性があり得ることを指摘している点で、佛教が内包している現実的な判断を評価している面が見受けられる。
楽寂静(らくじゃくじょう)とは、寂しくて静かな境地を楽しむの意味であつて、人間における本来の本質的な楽しみは、自律神経がバランスして、多少の孤独感と静けさとが共存している状態であることが、主張されている。
勤精進(ごんしょうじん)とは、一所懸命に努力するの意味であつて、限りある人生を有意義に過ごす為には、寸暇を惜しんで努力する必要のあることが述べられている。人間の一生は多少の長短はあるにしても、必ずその終末の到来を予測して置かなければならない。したがつてそのような意味で、人間の一生について云うならば、努力なしに楽しい人生はあり得ない。
不忘念(ふもうねん)とは、正しい意識を亡失しないの意味であつて、自律神経がバランスしている為に、はつきりした意識が絶えず心の中に存続している状態を云う。
修禅定(しゅぜんじょう)とは、坐禅の修行を実行して行くの意味であつて、仏道修行の中心である坐禅の修行を、毎日確実に実行して行くことを意味する。仏道の世界に於いては、坐禅の修行の実践が無い限り、仏道の世界はあり得ないのであつて、単なる思考の世界や単なる感覚的な刺激の世界の中には、行為を基準とした現実の仏道が存在し得ない実情を、われわれの心の中に明記するべきである。
修智慧(しゅちえ)とは、単なる脳細胞の働きによる思考の働きではなく、自律神経がバランスしている時に現れて来る直感的な判断を意味している。したがつて修智慧とは所謂般若の智慧であることを、忘れてはならない。
不戯論(ふけろん)とは、遊戯的な議論をしないとの意味であり、議論が現実の問題と密切に関連していない場合には、議論そのものが実際に意味のある内容になつていない。そしてそのように実際的でない議論を繰り返すような努力は、実質的には何の意味もないことが主張されている。
このように八正道をとつて見ても、八大人覚をとつて見ても、仏道における道義は、観念論における論議のように、単に頭の中だけで考えられた口先だけの議論でもなければ、唯物論における議論のように、最初から道義そのものを否定する道義不在の議論でもなく、飽くまでも現在の瞬間において現実の行いと密切に関連した、行いそのものである。したがつて仏道における道義は、われわれの日常生活における現実の事実として、極めて具体的に検討して行かなければならないのであるが、そのような態度が正に本当の意味における道義との対峙であつて、ドーゲン・サンガの会員たる者は、その日常生活の上においても、そのように極めて実践的な問題として、道義に関する問題を考えて行かなければならない。。
4 Comments:
私は以前に西嶋老師にだいぶご迷惑をおかけした者です。老師の仰る事は、文書で読むとなるほどと納得する部分や気づく部分が多いです。会話というのは瞬時の意思疎通が無条件の前提とされるので、お互いの基礎的理解が伴っていないととかく悪い流れに陥りやすいものです。なにぶん精神状態が神経過敏で異常状態でした。しかし、それもまた一瞬一瞬の思いの連続にすぎなく、今現在はまた以前とは違う状態でだいぶ落ち着いてきたと自覚しております。ゴミのような過去はさっさと捨て去らないと、時間が進行するにつれどんどんとたまっていくその重荷につぶされてしまうようです。
前回刹那のところで質問させて頂きました石川と申します。その時の西嶋老師のお答えは一生の宝ものです。さて私はいつも愛語にひっかかっています。以前キリスト教の洗礼をうけた後嫌いな人や愚かな人に優しい言葉をかけられなくていつも自分を責めていました。その後西嶋老師の教えに出逢い座禅の中にのみ安楽を見いだせます。自分の中に法に対する安心感があり自分自身とも食い違うことがなければ他人にも愛語はでないと思うのです。ですので嫌いな人や愚かな人にたいして愛語を言えるようになるのは自分にとって最後の関門かと思っています。老師は仏教の徳目に対しても座禅を基礎として仏道の道義的な基準を理解する事が出来ると書かれています。ですから愛語が言えるようになるまでは座禅を毎日行い日常生活をキチンと行っていけばいいのでしょうか?また友達で座禅はやるつもりはないが愛語は実践したいという人がいるのですが本当の心と言葉とが一体となった愛語はありえるのでしょうか?
愛語だけでは人は成長しない。叱咤激励の言葉も人が人たらしめて生きていくに必要だ。しかし、叱咤激励と、悪口雑言とは全く違う。これを混同して使用している大人や宗教関係の方がまことに多い。また、愚痴や不平不満悪口雑言ばかり口にするというのは、他人に対してもそうだがなにより自分自身の精神衛生上も全く良いことではない。良い言葉に触れ良い言葉を発することによって自分自身の精神心理状態も平衡に保つことができる。この人とはどうしても協力して生きていかねばならない。そんな相手に対しては自然と愛語もでてこよう。誰に対してもどんな時でもというのは現実的に無理だしそんな人には未だかつてお目にかかったことがない。お互いこの生きるに短い一生をどれだけ協力して同朋として生きていけるか。この意思いかんによる。
匿名でコメントを頂いた方へ
4月にコメントを頂いておりながら気が付かず、大変失礼いたしました。私からのお答えは、次のようなものになるかと存じます。
人間というものは、自律神経がバランスしている場合と、そうでない場合とでは、想像も付かない程違いますので、貴兄の場合は大変落ち着かれて来たようで、非常に結構であつたと存じます。
石川さんへ
貴兄のご意見のように、坐禅を毎日されて自律神経がバランスしてくれば,愛語は自然に出て来るものです。なおお友達のように、坐禅をやつて自律神経をバランスさせるつもりはないけれども、愛語は実践したいという方にとつては、いつまでも愛語は出て来ないのではないかと思います。
別の匿名の方に
佛教の観点から問題を考えますと、叱汰激励も時によつて役に立つことがありますが、優しい言葉を掛けられた時に、意外にやる気が起きる場合もあります。
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