2007年7月10日火曜日

私の著作(日本語)

私は現在87歳になつているので、そろそろ死ぬ為の準備をしなければならないと考え始めている。したがつて私がどのような本を書き、それを株式会社金沢文庫を通じて出版させて頂いているかと云う事を、佛教に関心をお持ちになつている沢山の方々にもお知らせして、皆様のご参考にする事が必要であろうと考え、それらの書籍の紹介をさせて頂く事にした。勿論金沢文庫以外の出版社からも2、3の本を出させて頂いているけれども、殆どの著作は金沢文庫さんから出版させて頂いている処から、先ずその部分についてご報告をしたい。。金沢文庫さんの住所、電話その他は次の通りである。

郵便番号162−0845:東京都新宿区市谷本村町1−1、住友市ヶ谷ビル、8階
株式会社金沢文庫
電話03(3235)7060:Fax 03(3235)7135

(1)佛教ー第三の世界観
此の本が私の佛教思想に関連して書いた最初の著作である。私は16〜17歳の頃から沢木興道老師を通て道元禅師の佛教思想を勉強したのであるが、それ以前には生意気にも、この世の中に真実というものは無いのではないかと思い、仮にあるとしても、まだ人類はそれを的確には掴んでいないと考えていた。しかし 道元禅師の佛教思想を勉強し、その全容が飲み込めるようになつた時、これこそが世界全体を通じて活用することの出来る唯一の真実であると確信した。
そこでそのような考え方を,出来るだけ平易な表現で書き表すことに努力し,最初に書き上げた著作が此の[佛教−第三の世界観」である。私はこの本の中で、釈尊が最初に説かれ,竜樹尊者、達磨大師と伝えられ、13世紀の始めに日本の道元禅師によつて解明された佛教と呼ばれる思想が、一体どのような思想であるかという問題を解明しようとした。
しかも現にわれわれがその中に住んでいる20世紀〜21世紀の時代においては、古代のギリシャ、ローマの時代に発達し、現に世界全体の国々に影響を与えている人間主義の観点から、一切の思想を考え直して見る必要があると考えた処から、現代の日本語を使いながら、佛教という考え方を,出来るだけ解り易くしかも理論的に説こうとした著作が,此の[佛教−第三の世界観」である。此の本は昭和50年の12月30日に、最初(株)中央公論事業出版という自費出版の手助けをして呉れる会社を通じて出版されたが、私自身も小さな(有)佛教社という会社を設立して、販売に努力した。自分自身で少部数の著作を風呂敷に包み、小売りの書籍店を歴訪して、販売に努力した事も有る。幸いにして10年位の間に10版を重ねる事が出来たが、出版業界の実情を全く知らない一個人の無謀な試みであり、幸いにして今日まで継続させて頂いたことも、多数の方々のご協力の賜物として、常々有り難く感じている。
此の本は私にとつて正に開教宣言の書であるが、今日読み返して見ても、その論旨は私が現に持つている佛教思想と内容は全く同一であり、したがつて釈尊の教えが如何に確定的な不変の教えであり、真実の教えであるかという事を物語つている。
先ず最初に果たして佛教がこの20世紀、21世紀の時代に必要かどうかが論じられ、古代のギリシャ・ローマ以来数千年に亘つて対立して来た観念論と唯物論との対立が、人類の文化に膨大な発展を齎したと同時に、絶えず人類社会の中に解決の不可能な絶対の対立を齎す状態を指摘し、遠く古代インドにおいて徹底した観念論であるバラモンの教えと徹底した唯物論である六師外道とが対立していた時代に出現し、坐禅の修行を中心とした行為の哲学により、観念論と唯物論とが共に思考と知覚とから生まれた思想であり、この二つの言わば架空の思想を否定するのでなければ、最終の真実が発現して来ないことを力説している。
そして佛教の基本思想として,佛,法、僧の三つの最高価値を挙げると同時に、四諦,因果の理法、刹那生滅の道理、そして仏道の究極としてに坐禅の修行が説かれている。
この本は内容の正確さを期するため、稍難解な用語が使われているけれども、仏道の理論的な解説としては、良く書かれた著作であると思う。

定価 1,900円 (税込)


(2)普勧坐禅儀講話

普勧坐禅儀は、道元禅師が満27歳の時に中国から帰国され,京都の建仁寺において2,3年の間にお書きになつた本と推定されている。したがつて道元禅師にとつては、ご自分が中国において天童如浄禅師から伝えられた釈尊の教えを表明する開教宣言である。事実、普勧坐禅儀の中には、およそ坐禅に関して必要な項目は必ず書かれているが、不必要な項目は決して書かれていない。したがつてわれわれが釈尊から伝えられた坐禅の修行に当つては、必ず眼を通さなければならない著作であり,それと同時に坐禅に関連しては、この一冊さえ読みこなせば他の参考書は一切不要と考えてもよいような完璧さを具えた著作である。
普勧坐禅儀は先ずその冒頭において、佛教特有の徹底した楽観論が述べられている。すなわちわれわれが現にその中に生きて居る現実世界を観察した場合、その現実世界には一切の真実が具わり、修行とか体験とかをする必要は、少しも無いように感じられると主張されている。しかしそれと同時に現に眼の前に展開されている現実の実生活を眺めて見ると、仮にほんの僅かの食い違いがあると、その食い違いが天と地と程の広がりに發展し、ほんの僅かでも、正しい、間違つている、の問題が起こると、何が何だか解らなくなつてしまう。これがわれわれが日々体験している日常生活の実情である。
このように普勧坐禅儀はわれわれの日常生活における実情を正直に述べながら、われわが何故坐禅の修行を必要とするかという理論を正確に述べられた上、具体的な坐禅のやり方が述べられている。そしてその中で最も大切な教えは、坐禅は決して物事を考える修行ではないという主張である。最近では欧米においても坐禅の修行が非常に盛んになつて居るけれども、欧米の宗教の中にも瞑想、メデイテイションという修行法があるところから、坐禅を欧米に於けるメデイテイションと同じもののように誤解している場合がひじょうに多いけれども、これは非常に大きな間違いである。欧米の瞑想は何かを考えることの中に目標があるようであるけれども、坐禅は寧ろ何も考えない処に目標がある。普段いろいろと問題を考え過ぎる実情から抜け出して、住む場所を行為の世界に置き換え、絶えず与えられる現在の瞬間の中で、行為的な人生を送つて行くことが、仏道修行の目標である。

定価 1,100円 (税込) 


(3)学道用心集講話

学道用心集は、道元禅師が普勧坐禅儀をお書きになつてから、7年程経つてからお書きになつた本であります。学道用心集は10の項目から成り立つておりますが,第3と第6の項目には日付けが入つており、しかもその日付けが違つておりますから、10の項目が同じ日に書かれたものではなく,10の項目が別々の日に書かれたと推定することが出来る。
学道用心集の10の項目とは,1)菩提心を起こすべき事、2)正法を見聞した場合、必ず修習すべき事、3)仏道は必ず行に依つて証入すべき事,4)有所得の心をもつて佛法を修すべからざる事、5)参禅学道は正師を求むべき事、6)参禅に知るべき事、7)佛法を修行し出離を欣求するの人は、須らく参禅すべき事、8)禅僧の行履(あんり)の事、9)道に向つて修行すべき事、10)直下承当の事、の10項目である。
そして1)で云おうとしていることは、仏道修行に当つて最も大切なことは、先ず真実を知りたいという気持ちを持つことであると云われて居る。そして2)においては、正法すなわち釈尊の教えに出合つたならば、必ず勉強しなければならないということが、云われている。そしてそれが何故から来るかというならば、釈尊の教えが宇宙における唯一の正しい教えであるから、折角、唯一の正しい教えに出会いながら、その正しい教えを勉強しないならば、正しい教えを勉強する機会を、一生失つてしまうことが述べられている。また3)では、仏道というものは、必ず行いを通して勉強すべきものであることが述べられている。何故かと云うならば、佛道の真実とは現実の事実であつて、頭で考えた理屈や、感覚器官を通じて受け入れた外界からの刺激ではない。したがつて仏道における真実を知りたいと思うならば、われわれの身体を正しい状態において、正しさを直観的に掴む自律神経のバランスを味わうことの必要性が述べられている。さらに4)においては、仏道は名誉や利得のために修行すべきものではなく、真実そのものの為に修行するべきものであることが述べられている。また5)においては、坐禅をし仏道を勉強するに当つては、正しい師匠を得ることが大切であり、正しい師匠が得られない場合は、仏道は寧ろ勉強しない方が良いと云われて居る。正しい師匠を得ずに佛道修行をする場合には、間違つた教えばかりを勉強させられる処から、仏道修行が寧ろ本人を不幸にする結果に繋がるので、正しくない師匠について仏道を勉強することが、極端なマイナスに続がることが述べられている。また6)では、坐禅の修行の中心は,頭で哲学を考えることでもなければ、感覚器官を通じて外界の世界からの刺激を受け入れることでもなく、姿勢を正すことに依つて、自律神経のバランスを維持する事が、仏道修行の中心であることが述べられている。さらに7)では、釈尊の教えを実践し,俗世間からの離脱を願う人は、是非坐禅をする必要があるという主張が述べられている。そして8)においては、坐禅をする僧侶の境地は決して頑迷固陋なものではないけれども、実際にその境地の分かつている人は少なく、分かつていない人が多いから、中途半端な処で中断する事を避け、最後迄行き着くことに努力することが説かれている。また9)では、仏道修行は正に真実に向つて直進するべきであり、仏道を信ずる者は、「自分が本来真実のまつ唯中にあり、迷よつてもいなかれば、上下が転倒している訳でもなく、多い少ないの間違いもなければ、何の誤りも犯しては居ないことを、信ずるべきであると云われて居る。そして最後の10)においては、真実に対しては正に現在の瞬間において直接出会うべきであるという主張をしておられる。

定価 1,350円 (税込)


(4)現代語訳 正法眼蔵

正法眼蔵が道元禅師の主著であることは申すまでもない。何故正法眼蔵が道元禅師の主著とされるかと云うならば、数多い道元禅師の著作の中においても、正法眼蔵が道元禅師の説かれた佛教思想を、最も正確に現代に伝えた著作だからである。
そしてその講本としてどの版を選ぶかという問題があるが、第二次世界大戦の終了直後に、日本全体に亘つて古いものを全て善悪の区別なく捨て去ろうとする風潮があつた処から、当時活躍していた3人程の少壮学者が、元禄時代に版ぎょう晃全禅師によつて編纂された九十五巻本の歴史的な意味を無視して、七十五巻本を正法眼蔵の定本として定着させようとした努力は、何ら学問的な意味のあるものではないと考えられる処から、本書は現にその版木が永平寺に保存されている九十五巻本を定本とし、更に衛藤即応先生の脚注を得た岩波文庫本の正法眼蔵を底本とした。
したがつてこの正法眼蔵は、全巻が12巻に分かれ、更に索引1巻が追加され、全巻が13巻に分かれている。
 一、正法眼蔵弁道話  二、正法眼蔵摩訶般若波羅蜜  三、正法眼蔵現成公案
 四、正法眼蔵一顆明珠  五、正法眼蔵重雲堂式  六、正法眼蔵即心是仏  七、正法眼蔵洗浄
 八、正法眼蔵礼拝得髄  九、正法眼蔵谿声山色  一○、正法眼蔵諸悪莫作  一一、正法眼蔵有時
 一二、正法眼蔵袈裟功徳  一三、正法眼蔵伝衣  一四、正法眼蔵山水経  一五、正法眼蔵仏祖
 一六 正法眼蔵嗣書  一七 正法眼蔵法華転法華  一八 正法眼蔵心不可得  
 一九 正法眼蔵心不可得  二〇 正法眼蔵古鏡  二一 正法眼蔵看経  二二、正法眼蔵仏性
 二三、正法眼蔵行仏威儀  二四、正法眼蔵仏教  二五、正法眼蔵神通  二六、正法眼蔵大悟
 二七、正法眼蔵坐禅箴  二八、正法眼蔵仏向上事  二九、正法眼蔵恁麼  
 三〇、正法眼蔵行持〈上〉  三〇、正法眼蔵行持〈下〉  三一、正法眼蔵海印三昧
 三二、正法眼蔵授記  三三 正法眼蔵観音  三四 正法眼蔵阿羅漢  三五、正法眼蔵柏樹子
 三六、正法眼蔵光明  三七、正法眼蔵身心学道  三八、正法眼蔵夢中説夢  三九、正法眼蔵道得
 四〇、正法眼蔵画餅  四一、正法眼蔵全機  四二、正法眼蔵法都機  四三 正法眼蔵空華
 四四 正法眼蔵古仏心  四五、正法眼蔵菩提薩陀四摂法  四六、正法眼蔵葛藤
 四七、正法眼蔵三界唯心  四八、正法眼蔵説心説性  四九、正法眼蔵仏道  
 五〇、正法眼蔵諸法実相  五一、正法眼蔵密語  五二、正法眼蔵仏経  五三、正法眼蔵無情説法
 五四 正法眼蔵法性  五五、正法眼蔵陀羅尼  五六、正法眼蔵洗面  五七、正法眼蔵面授
 五八、正法眼蔵坐禅儀  五九、正法眼蔵梅華  六〇、正法眼蔵十方  六一、正法眼蔵見仏
 六二、正法眼蔵偏参  六三、正法眼蔵眼睛  六四 正法眼蔵家常  六五、正法眼蔵龍吟
 六六、正法眼蔵春秋  六七、正法眼蔵祖師西来意  六八、正法眼蔵優曇華
 六九、正法眼蔵発無上心  七〇、正法眼蔵発菩提心  七一、正法眼蔵如来全身
 七二、正法眼蔵三昧王三昧  七三、正法眼蔵三十七菩提分法  七四、正法眼蔵転法輪
 七五、正法眼蔵自証三昧  七六、正法眼蔵大修行  七七、正法眼蔵虚空  七八、正法眼蔵鉢盂
 七九、正法眼蔵安居  八〇、正法眼蔵佗心通  八一、正法眼蔵王索仙陀婆
 八二、正法眼蔵示庫院文  八三 正法眼蔵出家  八四 正法眼蔵三時業  八五、正法眼蔵四馬
 八六、正法眼蔵出家功徳  八七、正法眼蔵供養諸仏  八八、正法眼蔵帰依三宝
 八九、正法眼蔵深信因果  九〇、正法眼蔵四禅比丘  九一、正法眼蔵唯仏与仏  
 九二、正法眼蔵生死  九三 正法眼蔵道心  九四 正法眼蔵受戒  九五、正法眼蔵八大人覚

 別巻 索引

各巻に於ける構成は,先ず各巻の概要を短い文章で描写し、次いで原文を各節毎に分割して表示している。
次いで難しい単語の解説を掲げた後に、現代語による訳文を掲げている。

定価 2,900円 (税込)

索引 定価 4,100円 (税込)


(5)正法眼蔵提唱録 全34巻

現代語訳正法眼蔵に掲げられた正法眼蔵の本文を講本として、台東区の柳橋会館でおいて行われた(株)井田両国堂主催の眼蔵会において、西嶋和夫自身が行なつた講義と、その後における質疑応答とを速記し、校正を経て著作としたものである。したがつて解説が極めて平易であり、非常に理解し易い特徴があり、講義の後に行われた質疑応答においても、通常では耳にすることの出来ないような内容が含まれている。したがつて全巻の部数は非常に多いけれども、初心者にとつては好適な入門書となつている。

全34巻 各册 定価 3,300円 (税込)


(6)サラリーマンのための 坐禅入門

筆者が最初、実業の日本社からの依頼で執筆し、同社のシリーズ中の一冊として販売されていたものであるが、資本主義社会の今日では、サラリーマンであることが非常に多数の人の生活様式であるところから、筆者が実業の日本社から紙型を譲り受けて,金沢文庫から出版した著作である。  

定価 2,000円 (税込)


(7)愚道老人 佛教問答

とかく難解として敬遠される佛教書を、出来るだけ解かり易く説明するために、赤心と呼ばれる佛教の研究に熱心な青年と愚道と呼ばれる老僧との間の問答を通して、佛教における基本的な考え方を、平易に解説しようとした著作であり、最初の入門書として好適である。

定価 1,100円 (税込)


(8)宝慶記講話 上・中・下

宝慶記は、道元禅師が中国に留学され、天童如浄禅師の下で仏道の勉強をされて居た時代に、如浄禅師からの教えを道元禅師ご自身が記録された著作である。宝慶という名前は、その当時の中国の年号が宝慶と呼ばれていた処から付けられている。如浄禅師が当時の中国においても、非常に特徴のある佛教思想の持ち主であつたから、その影響がどのように伝えられたかを知る上で、貴重な著作である。

定価 上・中 各巻 1,350円 (税込) 下巻 1,100円 (税込)


(9)坐禅のやり方

釈尊の教えの基本は,毎日朝晩、坐禅の修行を実行することである。しかし坐禅の修行とは、実際にどのような修行をすればよいかが、一般にあまり知られていない。したがつて小高適斎画伯の肉筆画を多数挿入して、坐禅とは実際にどのように坐ればよいかを解説した著作である。但し著者が坐禅会の開催から引退して以降、坐蒲の販売先や坐禅会の開催は、過去のものとなつているので、ご了承頂きたい。

全31頁  定価 570円 (税込)


(10)道元禅師四宝集

道元禅師の著作の中でも比較的小册子となるため、単独では手に入り憎い普勧坐禅儀、学道用心集、宝慶記、真字正法眼蔵の四著を道元禅師四宝集と名付け、利用者に便利なように編集した著作である。普勧坐禅儀については、真筆本と流布本とが両方含まれており、道元禅師の著作の内、単独には手に入り難い四著を手許に置く点では、極めて便利な著作である。なお真字正法眼蔵とは、道元禅師ご自身が選ばれた三百の公案集であり、通常は正法眼蔵三百則と呼ばれているけれども、本来は単に正法眼蔵という表題になつている処から、和字の正法眼蔵と区別するために,真字正法眼蔵とした。なお三百の公案に関連した祖師方の系統図が添付されており、拙著、[現代語訳正法眼蔵」に直接引用されている公案の索引と、人名の索引とが添付されている。

全208頁  定価 570円 (税込)


(11)真字正法眼蔵提唱 全六巻

提唱という言葉は、他の祖師方の著作を講本として、仏道の講義を行う事であるが,道元禅師がお集めになつた三百の公案に対し、筆者が(株)井田両国堂の坐禅道場で行つた講義の速記を、本にしたものが本書である。一般に公案は,意味の解らない問答として不可解な解釈の行われている事が,通例であるけれども、道元禅師の場合は、仏道の基本原則である四諦の教えを、過去の祖師方とその弟子達との間の問答の形で説明した,佛教哲学に関する最も基本的な例話として取り扱われでいる。したがつて公案が持つて居る佛教哲学の本当の意味を知る上で、貴重な意味を持つている。

上・中・下巻が夫々一・二に分かれ、全六巻となつている。定価 各4,600円 (税込)


(12)永平広録 上・下 二巻

永平広録は、道元禅師が宇治の興聖寺、永平寺の前身である大仏寺、及び永平寺において行われた正式の説法である上堂や略式の説法である小参その他の説法と偈頌とを集められたものである。したがつて日常の寺院生活において示された弟子達に対する直接の教えであり、道元禅師が通常どの様な説法をされたかの実例として貴重である。原本の書名は,「永平道元和尚広録」となつており、私の師匠である永平寺七十七世の
丹羽廉芳禅師から頂戴した永平寺所蔵の原本の写しが基礎となつているので、門鶴本と卍山本との二つの系統の中では、門鶴本の系統に属しており、資料としても貴重な意味を持つている。

上・下 二巻 定価 各4,000円 (税込)


(13)永平広録提唱 全十一巻

永平広録の全巻について、井田両国堂坐禅道場において行つた講義の速記によつて生まれた著作である。永平広録自身が、道元禅師によつてなされた正式並びに略式の説法であるから、正法眼蔵自身には含まれていない細部の教えを含んで居り,道元禅師ご自身の佛教思想を知る上で、貴重な内容を多く記録している。公案の説明にあたつては、観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものとから成つている、佛教の基本原則である四諦の教えを各公案毎に基準として、解説が行われているところから、各項の理解が非常にし易くなつている。

全十一巻 各巻3,100円 (税込)


(14)永平清規典座教訓提唱

佛教寺院内の規則を、中国や日本では清規(しんぎ)と呼んで居るが、道元禅師はご自身が自ら中国に行かれ、中国における寺院の実際を直接見聞された処から、その極めて整つた中国寺院内の規則を忠実に日本に導入する目的で、幾つかの清規を作られた。それが永平清規と呼ばれる日本に於ける最初の清規であり、その内容は、典座教訓、弁道法、赴粥飯法、衆寮箴規、對大己五夏闍梨法、知事清規の六つを上げることが出来る。
その中でも特に典座教訓は,人間生活の基本である食物の準備に関する仕事を、人間生活における中心的な課題として捉え、仏道修行に於ける非常に大切な生活内容となつて居ることが述べられている。

定価 3,300円 (税込)


(15)永平清規弁道法衆寮箴規提唱

弁道法と衆寮箴規とは別個の著作であるが、両者が比較的短い処から一冊の本とした。
弁道法は坐禅の修行に関連して、僧堂における毎日の坐禅に関して述べられた著作であり、一日四回の坐禅が指示されている。すなわち黄昏(おうこん)の坐禅、後夜(ごや)の坐禅、早晨(そうしん)の坐禅、及び哺時(ほじ)の坐禅の四回をいう。一回の坐禅を長期間実行するのではなく、比較的短期間の坐禅を頻繁に行うことが、ご趣旨であつたと解される。黄昏とは夕方、後夜とは早朝、早晨とは朝食後、哺時とは昼食後を意味する。
衆寮箴規とは、修行僧が読書その他の日常生活を送る衆寮における生活態度を規定した規則であり、日常生活における細かな規則が述べられている。

定価 3,600円 (税込)


(16)永平清規赴粥飯法提唱

粥は「かゆ」を意味し,寺院に於ける朝食を表わし,飯は寺院に於ける昼食を意味する。したがつて赴粥飯は朝食あるいは昼食に赴くの意味となり、赴粥飯法は寺院における朝食、昼食の取り方を事細かに説明した著作である。食事は云う迄もなく、人類にとつて最も大切な行事であり、道元禅師は食事の取り方の安定している事が,この世の中の原則において安定している事と、同じ事実を意味するという思想の持ち主であつたから、当時、中国の寺院において実際に行われていた食事の作法を、正確に日本の寺院に導入する為に,この著作を書かれた。

定価 3,600円 (税込)


(17)仏道は実在論である

この「仏道は実在論である」とそれに続く[四諦の教え」、[道元禅師と仏道」(上・下)及び「世界と仏道」の四冊は、一連の平易な仏教概論を説く積もりで書いた四部作である。そしてその第一作である「仏道は実在論である」は、従来仏教が、欧米におけるキリスト教信仰の影響を受けて、宗教である以上当然観念論でなければならないという前提で説かれて来た誤りを、是正するために書かれた。即ち仏教は従来説かれて来たようなキリスト教流の観念論ではなく、一般社会の人々が陥りがちな観念論と唯物論との誤りに気付き、両者を共に否定して説かれた実在論哲学であることが述べられている。

定価 1,100円 (税込)


(18)四諦の教え

四諦の教えは、釈尊が真実を得られてから、最初に説かれた教えである。したがつて四諦の教えの中には、仏教哲学全体を理解する為に必要な仏教の根本思想が含まれており、四諦の教えを理解すれば仏教哲学の全体を理解することができるけれども、四諦の教えを理解しない場合には、仏教哲学の全てを理解することがまつたくできないだけの重要性を持つている。
四諦の教えは、そのような重要性と難しさとを同時に持つて居る為に、その教えは釈尊が始めてそれをお説きになつてから数千年に亘つて本当の意味が解らず、歴史が流れてしまつたという事実があるように思う。したがつて四諦の教えの本当の意味が分かつて来たのは、二十世紀、二十一世紀になつてからであるという推論が成り立つ。二十世紀、二十一世紀になつて、欧米における観念論、唯物論に関する理解が、仏道信仰の普及している地域に充分に広がつた段階で、それらの地域に住む人々が始めて四諦の教えの本当の意味を、西洋哲学の理解を借りて始めて理解することの出来るようになつたのであつて、仏教を本当の意味で理解しようとする人々は、何を置いても先ず四諦の教えを勉強しなければならない。

定価 1,300円 (税込)


(19)道元禅師と仏道 上・下

道元禅師ご自身のお人柄とその仏教思想とについて、出来るだけ平易な表現を使つて入門書的な解説を試みた。特に道元禅師ご自身の仏教思想に関連してもその中核をなしている発菩提心、因果の理法、刹那生滅の道理、現実等の問題について、直接人格そのものに触れるような解説が行われている。

定価 上・下各巻 1、200円 (税込)


(20)世界と仏道

宗教や哲学の問題といえども、われわれが日々形成している一般の社会生活と密切に関連しているのであるから、将来、一般の世界情勢がどのように発展して行くかという問題と密切に関連している。そのような意味で、現在われわれが熱心に追求している仏道が、今後どのような過程を経て発展して行くかという見通しも、仏道の将来を知る上で非常に大切である処から、今日までの人類の歴史と,それに伴う方向や発展などを考えながら、仏道が将来世界の中で占めなければならない地位や方向について考えて見た。

定価 1,200円 (税込)


(21)般若心経、参同契、宝鏡三昧提唱

般若心経:仏教の世界には経本を非常に多数使つた大般若経という六百巻の経典があるが、此の経典を読了するには非常に時間がかかり、多大の労力を必要とする。そこでその大般若経の要旨を非常に短く纏めた経典として、この般若心経が生まれた。そして長さは短いけれども、仏教哲学の真髄を極めて的確に表現している。
参同契:中国曹洞宗の祖師である石頭希遷禅師の作であり、詩文の形式を取つているため極めて名文である。参は体験するの意味であり、同契は釈尊と同じ境地を意味する処から、参同契は釈尊と同じ境地を体験するという意味で、中国仏道の境地を歌い上げている。
宝鏡三昧:同じく中国曹洞宗の祖師である洞山良介禅師の作であり、やはり詩文の形式を取つている処から音読し易く、中国仏教の要点を掴む点でも有益である。

定価 1,600円 (税込)


(22)信心銘、証道歌提唱

信心銘は中国の第三祖鑑智僧粲禅師の作であり、鑑智禅師が活躍された時代は、中国皇帝が道教の信奉者であつた処から,禅師は仏道の普及に非常な苦労をされたけれど、信心銘を読むとその仏教哲学が後世の中国祖師よりも優れた面が有り、非常な感銘を受ける。
また証道歌は、中国の第六祖大鑑慧能禅師と略同時代に生きられた永嘉真覚大師が、最初天台系統の学問僧として天台教学を研鑽され、後に大鑑慧能禅師について極めて短期間に仏道の真髄を把握され、その成果を詩の形で表現された著作である。したがつて天台教学の理論的な理解を背景にしながら、坐禅による仏道の真髄を述べられた点で特色の有る著作である。

定価 2,100円 (税込)


上記の諸著の価格は、従来の税別価格に一率に100円を加え、税込価格とした。


郵便番号162−0845:東京都新宿区市谷本村町1−1、住友市ヶ谷ビル、8階
電話03(3235)7060:Fax 03(3235)7135

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