仏道と人間主義
(1)仏道と人間主義
私は満16歳の秋に、栃木県の大中寺で沢木興老師から、道元禅師のお書きになつた[普勧坐禅儀」のご提唱を伺い、われわれが絶えず求めている真実が、二千数百年前に説かれた釈尊の教えの中に、既に明確に説かれているという直感的な確信を得たのであるが、その際感じた事の一つは、この教えは単に日本だけではなく、世界全体に対して説かれる事の必要な教えであるという確信であつた。したがつてそれ以来、何とかして仏道を日本において復活させたいという念願を持つてはいたけれども、それと同時に正法眼蔵その他の道元禅師がお書きになつた佛教書を出来るだけ多く外国語に直し、仏道の教えが一体どのような教えであるかという事実を、広く世界に知らせる事を考えて来た。何故かというと私は小さい時から、単に日本だけとか単に東洋だけとかでしか評価されない思想は、本当の意味では文化的な価値を持たないと考えて来たからである。
したがつて長い年月に亘つて仏道の探求に努力を払い、その海外での普及にも努力して来たが、その過程では絶えず欧米の歴史の中おける文化の変遷と、仏道思想との関係を考えて来た。そして欧米における思想も正に人類の思想である以上、その中には必ず佛教思想と非常に類似した思想も含まれている筈であると確信して来た。その結果最近に至り、佛教思想と非常に近い思想として、欧米における人間主義を考えている。
一般的に考えて古代ギリシャの文明は、その時代におけるギリシャの都市国家が外国と戦い、戦勝の結果手に入れた奴隷の労力を基礎とした文明ではあつたけれども、都市国家の市民は比較的豊かな経済的な余力と恵まれた余暇とを拠り所として、当時としては非常に珍しく高い水準の文化を形成する事が出来た。そしてそのような文化がローマの世界に移り、やがてローマ帝国が持つた強大な軍事力を背景としてヨーロツパ全土に広がつた。その後、中近東で生まれたキリスト教信仰が、ローマ帝国やその周辺に広がり,人間社会の文化を一時禁欲的に抑制して、文化の熟成を図る自制の時代もあつたけれども、やがてイタリヤを中心としてヨーロツパ全土がルネツサンスの時代を迎えた。そして神と人間との中間にカソリツク教会の仲介を必要とする旧教の立場を離れて、神と人間との直結を主張する新教の誕生があつた。そこで旧教の唱えていた天動説が力を失う過程と呼応して、科学の急速な発達が始まり、機械を活用した効率的な生産が進み、アメリカの独立、フランス革命、アメリカにおける南北戦争、第一次,第二次の世界大戦を経た上で、人類は聡明にも第三次世界大戦を防止する事が出来た。勿論共産主義国家の今後、イスラム文化との協調、アフリカ社会の改善等を考えた場合、今日でも世界の
現状には、解決しなければならない問題が山積しいると考えられるけれども、それと同時に数千年以前の人類社会の未開発状態とその後に人類が展開した進歩の過程とを考えて来ると、やはりわれわれ人類は、人間そのものの偉大さに驚嘆しなければならないような歴史的な事実が、はつきりあるように思う。
(2)世界史における人間主義
そこで仏道と人間主義との密切な関係を説明する最初の糸口として、先ず世界史において人間主義が辿つた歴史的な事件の概略を振り返つて見たい。
1)グレコ・ローマン文明以前
グレコ・ローマン文明以前においては、人間主義の文明が極めて乏しい処から、その描写を省略する事としたい。
2)古代ギリシャ時代
古代のギリシャにおいては、多数の都市国家が存在した。そしてそれらの都市国家は、他所の国との戦争によつて得た敗戦国の国民を、奴隷とすることによつて得られた労働力を、経済活動の基礎とすることによつて文化が形成されたのであるが、それらの労働力に支えられた市民自身の生活は、比較的高い水準の生活と余暇とを与えられて居り、そのような生活環境を活用して、世界で最初の高い水準の文化を形成することが出来た。そしてそのような文化水準を背景として、彼等は文化の中で人間そのものを大切にする人類最初の人間主義を実現することが可能となつた。
その中でも特に有名な文化の一つは、プラトー(427〜347B.C.) によつて説かれた観念論哲学である。プラトーはこの世の中で実際に実在するものは、物質ではなくわれわれの頭の中で作り出される観念である事を主張した。そしてその例証の一つとして数学を取り上げ、1足す1は2であるというような理論が、われわれの眼の前に見えている物質よりも更に信頼のおける実在であることを主張した。この主張はわれわれ東洋人にとつては非常に意外な思想であり、われわれ東洋人の日常生活の中では、容易に了承し憎い主張ではあるけれども、欧米の文化の中では、極めて理論的な欧米文化の出發点となり、われわれ自身の文化の中においても、非常に重要な拠り処となつている。
しかしそれと同時に古代ギリシャにおいては、観念論とは全く正反対の哲学も同時に発達した。それが例えばプラトーと殆ど同時代に生きたデモクリトス(460〜360B.C.) によつて説かれた唯物論である。彼は現にわれわれが住んでいるこの世の中は、アトムと呼ばれる物質の最小単位の寄り集まりであり、精神的なものでは全くない事を主張した。このように古代ギリシャにおいては、それぞれの人間が自分の考え出した思想を自由に主張する立場が許され、そこに住む人々は人類の歴史の中で、それ迄は全く期待することの出来なかつた人間としての自由を、人類の始めての経験として味わうことが出来た。
そしてそのように人類の思想的な自由の許された古代ギリシャの世界においては、われわれ人類の生活目標を唯快楽の追求だけに限定する哲学も生まれた。それがエピクロス(341〜270)の開いたエピクロス学派である。エピクロスは哲学が個人の幸福を考究する学問である事を強調し、哲学が処世の為の手段を考究する学問であることを強調した。彼の意見によると、学問も道徳も学問や道徳そのものに価値があるのではなく、快楽を得る為の手段としてのみ価値があるとされた。彼はこの世の中がアトムという原子の集合体であると考えていたから、その点でも唯物論的であり、感覚的な刺激を人生最大の関心事とした点でも、唯物論的であつた。
またエピクロス学派と殆ど同時代に、ストア学派と呼ばれる学派も存在した。創始者はゼノン(336〜264B.C.) と呼ばれる哲学者であるが、ソクラテスを非常に尊敬し、人間の価値は、頭脳の働きや感覚の鋭さよりも、人間としての行為の正しさを最大の基準とした。したがつて世俗の価値観を離れ、完全に自由な生活が可能となつた賢者の境涯を最高の人生と考え、そのような状態をアパテイヤ(心が動揺しなくなつた状態)と呼び、そのような状態で生きる事を人生における最高の姿と考えた。この思想はその哲学的な体系が、われわれが絶えず勉強している佛教哲学と非常に似ているように思う。例えばわれわれの人生における価値として、(1)世俗的な名誉や利得を考慮の外に置いた事、(2)客観的な外界世界の実在を認めた事、(3)思考や感覚的な刺激よりも、日常生活の実践の中に人生の最高価値を認めたこと、(4)人生の最高の基準を、アパテイヤ、すなわち心が動揺しなくなつた状態の中に求めた事が、佛教哲学の思想構造と非常によく似ている事が感じられる。
3)古代ローマおよびローマ帝国の時代
古代ギリシャで生まれた観念論、唯物論、エピクロス学派、ストア学派等のさまざまの哲学は、やがて地中海を渡つてローマに上陸した。中でもエピクロス学派は、感覚的な刺激を大切にするローマ市民の気風と合致し,広く受け入れられたが、それと同時に日常生活における正しさを重用視するストア学派も、実践を重んじ道徳を重んじるローマ市民の生活を形成し、ローマが強大な軍隊を組織して、遠隔の地域の支配に成功することが出来た理由も、ストア学派に基ずく道義的な生活態度がその原因を作つたのではないかと考えられる。ストア学派はパナイテイオス(180〜110B.C.) によつてローマに伝えられたが、ポセイドニオス(約135〜約51B.C.)、セネカ(約4〜65A.D.)皇帝マルクス・アウレリュウス・アントニーヌス等によつて引き継がれた。
ローマ帝国は法律を基準とする国家統治や、秩序のある軍隊や、優れた文化に助けられて、殆どヨーロツパ全土に亘つて膨大な領土を獲得する事となつたが、思想的には可成り様々の主張が混在し、必ずしも安定した状態ではなかつた。しかし一世紀の前半にイスラエルにおいて成立したキリスト教が、パウロ等の努力によりローマにも広まり始めた。そしてローマ帝国においては、皇帝ネロから皇帝デオクレテイアヌスに至る約250年間に亘つては、極めて激しい弾圧が行われため、信者はカタコームと呼ばれる秘密の礼拝所で信仰を続けた。しかしそのように厳しい弾圧が行われたにも拘らず、(1)ローマ社会が転換点に差し掛かつていたこと、(2)神の前では全ての人々が平等であるというキリスト教思想が、一般の人々に受け入れられたこと、(3)信者がグレコーローマンの文明と妥協したこと、(4)世界的普遍的なキリスト教の性格が、ローマ帝国の世界性と合致したこと、(5)国際語としてのギリシャ語が布教に使われたこと等が幸いして、380年には皇帝テオドシウスは、ローマ帝国の全人民に対して、正統のキリストを信ずることを命じた。続いて392年にはキリスト教をローマ帝国の国教と定め、他の神々の礼拝を禁じた。この事は当時のローマ帝国の人々並びに周辺国の人々が、如何に世界の存在を意識し始め、世界全体を統率する事の出来る唯一に真実を求め始めたことを示していると考えられる。
4)封建制の時代
ローマ帝国の末期には、既にキリスト教そのものが社会全体を支配する状態に進んではいたが、更に封建制と呼ばれる社会体制が広がるに連れて、キリスト教の人間社会に対する支配も、一層強いものになつて行つた。元来、封建とは国王が領主に与えた土地を指すのであるが、人類の文化が進み人口が増加して、未開拓の土地が殆ど無くなつた時代から生まれる制度である。そしてヨーロツパにおいても、ローマ帝国の末期に多数の異民族がローマ社会に乱入し、諸国の支配権を確立し始めると同時に生まれた制度である。この制度においては領主が土地の所有権を持ち、それを農民に管理させて耕作させると同時に、その収穫の一定割合を領主に献納する形で、制度の運営が行われた。しかも農業生産による作物の収穫率は決して高いものではなかつたから、当時の住民は子孫の増殖を制限する事によつて、苦しい生活状態に対応することが必要であつたから、男女の肉体関係を罪悪視して子孫の増殖を防ぐキリスト教的な考え方が、当時の経済情勢に適合した考え方でもあつた。したがつて一般民衆に行き亘つたキリスト教信仰も、一方的に人間性を抑圧する思想として受け取ることは片手落ちであり、当時の社会情勢から考えた場合,人間社会の安定の為には欠く事の出来ない規制であつたと考えられる。
5) ルネツサンス
イタリヤの諸都市では、11〜12世紀の頃から東方との貿易が盛んとなり、ヴェネツイヤやジエノア等の沿岸都市は東方貿易に従事し、特に十字軍時代には遠征の通路、兵員,資材、船舶の供給地となり,十字軍以後も東方貿易によつてますます発展した。またフイレンツエ、ミラノ等の内陸都市においては、毛織物工業、絹織物工業が発達した。その結果、富裕市民層を中心として、封建制時代よりも更に遡つて古代ギリシャ・ローマの人間主義に根ざした文化をもう一度勉強し直そうという文化活動が、急激に高まつた。ルネツサンスとは文字通り「もう一度生まれる」という意味であり、古代のギリシャ・ローマにおいて盛んであつた人間主義の文化を、もう一度地上に再現させようという動きであつた。。
先ず古代ギリシャや古代ローマにおける古典の研究が盛んと成り、キリスト教発生以前のおおらかな人間主義の文化を学び直す事が始まつた。そしてダンテ、ペトラルカ、ボツカチオ等のフイレンツエ人が、古代のギリシャ・ローマの人間主義から深い影響を受けた作品を残した。また建築,彫刻、絵画等においても、ミケランジエロ、ボツテイチエリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラフアエロ等の天才的な芸術家が輩出した。
科学や技術の世界においても、鉱山学、人体構造、解剖学等の研究が進み、火薬,羅針盤、活版印刷等の発達に依り、文化に急速な進歩を与える結果となつた。そしてこのような目覚ましい進歩は、ネーデルランド、ドイツ、フランス、スペイン、イギリスに広がり、各地においてやはり目覚ましい進歩を遂げた。
そして天文学の世界においても、従来大地が不動であり、太陽が動いていると云う主張が行われていたキリスト教会に対して、太陽を中心にして地球がその周囲を動いているという天文学者の主張が、最終的には勝利を収めた経緯は、その後の人類に対して革命的な影響を与えた。
要するにルネツサンスは、封建制社会に依つて一時抑圧された人間主義の文化を、もう一度復活しようとするヨーロツパ全体の動きであつたと考えられる。
6)宗教改革
人間主義の動きは、宗教の世界にも広まつた。ドイツの神学教授であつたマルチン・ルーテル(1483〜1546)は、ウィテンベルグ教会の扉に95条からなるキリスト教会に対する質問状を貼りつけ、カソリツク教会の態度、特に当時教会が教会維持のために発売していた贖宥符の販売を非難した。そして彼は、キリスト教徒の行為は常に聖書の記載に従つて行うべきであることを主張した。しかもそのような主張は、封建君主や自主独立の市民や人間主義的な作家や封建制度の中で非常に苦しい生活を余儀なくされている農民等によつて支持された。
またルーテルと殆ど同じ時期に、やはり人間主義的な神学者であつたジアン・カリヴィン(1509〜64)は、フランス政府の迫害を恐れてスイスに逃れた。彼の思想もルーテル
の思想と同じように、キリスト教徒は常に聖書に書かれた教えにしたがつて行動すべきであるという教えであつたから、人間主義の主張から少し離れてはいたけれども、新教的な労働の尊重に助けられて、近代的な商業主義の活動、近代的な機械工業による生産が非常に力付けられた。
第三者的な立場から見ると、キリスト教の信者が神と人間との間に、カソリツク教会の存在を必要とするか否かは、あまり本質的な問題とはならないように思われるけれども、人間主義の立場から考えるならば、神と人間とが直接の交渉を持つ事に、大きな意味が有る事であろう。その点では宗教改革における旧教から新教への転換も、人間主義的な要請の一つの前進であつたと考えられない事もない。そしてイギリスやフランスにおける清教徒と呼ばれる熱心な新教徒の人々が、その純粋な信仰を維持するために、アメリカ大陸に移住したことが、やがてアメリカ合衆国独立の一つの原因となつて居る歴史的な事実を認める事が出来る。
7)アメリカ合衆国の独立
16世紀の中頃から、イギリスにおける清教徒の人々が、信仰の自由を守りたいという動機から、北アメリカの東海岸に移住する動きが始まり、その数は次第に増加した。そして第18世紀の初期には、十三の州が設立された。
しかしイギリス政府はそれらの州に対して、かなり厳しい態度を取つた処から、植民地の人々がイギリスからの独立を強く希望するようになり、1775年にボストン郊外のレキシントン及びコンコードの戦いから、戦闘が開かれた。
戦争の初期においては、独立軍の勢力はあまり強くなかつたが、次第にフランス、スペイン、オランダ等が独立軍を支援するようになつたため、独立軍が次第に強さを増し、更にロシヤ、スエーデン、デンマーク、ポルトガル、プロシャは、中立を守ることを約束した。そこでイギリスは稍孤立化し、1783年にパリで開かれた平和条約において、戦争を集結した。
このような歴史的な事件も、われわれは人間主義の前進に関する輝かし前進の一例と考える事が出来るし、このアメリカ合衆国の独立が、やがてヨーロツパ大陸において起こつたフランス革命を、おおいに刺激したことも考えられる。
8)フランス革命
16世紀におけるフランスの政治哲学者ジアン・ボルダンは、一般に国王が持つている統治権は神から与えられたものであるから、神聖であり絶対であるという意見を述べている。しかし17世紀,18世紀になると、例えばヴォルテール(1694〜1778)、モンテスキュウ(1689〜1755)やルツソー(1712〜78)は同じ問題を、もつと人間的な観点から捉え始めている。そしてそのような人間主義的な国家権力の理解が、さまざまの通信網を通じて、国内に広がり始めていた。その結果フランス国民は、少しずつ彼等を支配し続けて居る彼等の政府と、彼等自身が置かれている政治的な実情との関係に気付き始め、政府の政策を強く批判するようになつた。そこで政府は、政府に対して激しい非難を浴びせる国民を、政治的な犯罪者として刑務所に収容したが、そのような状況から、全国の刑務所がそれらの政治犯によつて溢れる結果となつた。そして1789年の7月14日、多数の主婦が食料の不足から政府に対するデモ行進を行つたが、その余波がバステイーユの刑務所に到達し、多数の政治犯を釈放したことが、フランス革命の發端となつた。
しかもこのような政治的な混乱は、殆どフランス全土に波及したところから、1791年の10月から新しい議会が開かれたけれども、穏健派のジロンド党と過激派のジャコバン党とが対立した。したがつて穏健派のジロンド党が内閣を組織したけれども、オーストリアやプロイセンの了解が得られず、両国はフランスに対して宣戦を布告した。しかしフランス軍がそれ程強力でなかつた処から、それらの外国軍隊はフランス国内に侵入したため、国内の過激派が勢力を回復し、彼等が遂にルイ16世とその家族を殺害する結果となつた。そこでフランスは更に困難な状況に追い込まれることとなり、最終的には1802年にナポレオンの軍事力によつて救われるまで、問題を解決することが出来なかつた。
9)アメリカ合衆国における南北戦争
アメリカ合衆国においては、1854年に共和党が始めて結成されたが、第16代目の大統領として、アブラハム・リンカーンが共和党から始めて選出された。しかも彼は奴隷制の廃止を主張する政治家として有名であつたから、彼の大統領就任以来、奴隷制廃止の運動が俄に活発となつた。
しかし合衆国の南部地域においては、非常に広大な地域に亘つて木綿畑の開拓が既に行われて居り、その耕作者達は木綿畑の耕作の為に、どうしても奴隷労働者の存在を必要とするように見受けられた。そこで合衆国の南部の11州が、木綿栽培の為に必要な奴隷制度を維持するために、合衆国からの独立を希望した。その結果、合衆国内における独立戦争が勃発し、1861年にいわゆる南北戦争が開始された。そして戦争開始の当初は南軍が優勢であつたが、北軍の方が武器の生産が順調に進み、人口の豊かさにおいても北軍が優れていた処から、次第に北軍が優勢となり、遂に1865年に北軍が勝利を収める結果となつた。
そして単に一国の国内戦争においても、奴隷制度を廃止しようとする人間主義的な勢力が勝利を収めたという歴史的な事実の中に、人間主義の人類社会に於ける決定的な方向を読み取ることが出来るように思う。
10)第一次世界大戦
1914年の6月28日に、オーストリアの皇太子夫妻がボスニヤ州の首都サラエボにおいて,セルビアの一学生によつて殺害された。そこでオーストリアとドイツとはセルビア地方を攻撃したが、逆にロシヤがセルビア地方を助け、やがてフランスとドイツとの間でも戦闘が開始された。次いでイギリス、ベルギーも中立をドイツによつて侵害されたことを理由として参戦したところから、殆ど全世界を巻き込む第一次世界大戦に発展した。
戦闘は1918年まで継続されたが、戦局はドイツ、オーストリア、オトマン・トルコ等にとつて不利となり、戦闘は11月11日に停止された。次いで1919年の1月に、第一次世界大戦の戦勝国である連合国27か国の代表がパリに集まり,同年6月28日に平和条約がヴェルサイユ宮殿で調印されたが、内容はドイツ、オーストリアにとつてかなり厳しいものであつた。
11)第二次世界大戦
1931年に日本は稍謀略的な手段で、中国のマンチュリアと呼ばれる東北地方を占拠し、満州国と呼ばれる傀儡政権を樹立した。そして1932年と1936年とには、小規模のクーデターが起こり、当時の内閣総理大臣、大蔵大臣,財界の重要人物等が殺害された。しかもそれを契機として、日本国内には軍部の意向を無視して、政治活動を行う事が実質上不可能になつた。
丁度そのような時期に、ドイツではナチ(国民社会主義ドイツ労働党)と呼ばれている政党が、短期間の内に強大な勢力を得て、その指導者であるアドルフ・ヒツトラーが,1933年には大統領ヒンデンブルグによつて、首相に任命された。しかし彼はまず議会を解散し、新議会で全権委任法を成立させた上で(1933年3月)、1934年8月にヒンデンブルグ大頭領が死去すると、自ら大統領と首相の地位を兼ね、完全に独裁体制の国家を建設した。
またイタリアにおいても、ベニト・ムツソリーニが1919年にイタリア・フアシスト党を結成し、その3年後には一斉に黒シャツを着用して、ローマに向つて音楽行進をした。そして総理大臣に任命されて以降は、独裁制の体制に向かつて政府を組織した。
そして第二次世界大戦は、日,独、伊の枢軸国と英、ソ連、合衆国の連合国との間で行われた。ドイツは秘かに再軍備を行い、ヒツトラーはヴェルサイユ平和条約に違反して、1936年にラインランドに侵入した。そして同じ年にイタリアのファシスト独裁者であるベニト・ムツソリーニは、ベルリン・ローマ枢軸を作つてヒツトラーと同調し、1937年にイタリーは
ドイツと日本との間における防共協定を保証した。
それ以降ドイツはその周囲の数カ国を侵略し、イタリアもまた1935年から1936年に掛けてエチオピアを侵略し、日本もまた1941年の12月に真珠湾における合衆国艦隊を攻撃して、合衆国が英国側に立つて参戦することの口火を開いた。
連合国軍の西ヨーロツパ侵入は、1944年の6月におけるノルマンデイ作戦以降始まつたが、1945年の5月ヒツトラーがベルリンで自殺をした後に、ドイツが降伏した。
太平洋作戦は日本の海軍を壊滅させ、1945年の8月6日、9日における広島、長崎に対す
る原子爆弾による攻撃を頂点とする、合衆国の日本に対する策戦的な重爆撃は、一ヶ月後における日本の降伏を導いた。
日本やドイツやイタリーは、その帝国主義や独裁制や軍国主義によつて、それらの国々が抱えていた植民地獲得の劣勢を回復しようとしたのであるが、そのように難しい仕事を達成するためには、日独伊三国は少し遅かつたように思う。人間主義や民主主義が発達した結果、世界の人々は、植民地獲得の競争時代に逆戻りすることを好まなかつたように思う。
12)第三次世界大戦の回避
第二次世界大戦の後、アメリカ合衆国とソビエツト連邦とが、地球上の二大勢力として頭角を現わして来た。戦時中における彼等の連合は、戦後3年も経たない内に崩壊し、冷戦が進むに従つて二つの国家群は相互に、原子力にもとずく再軍備計画を開始した。
アメリカ合衆国:世界で四番目の大国。アラスカ、ハワイ、ペルト・リコ、及び太平洋の多数で細かい諸島を含む北アメリカの中央帯。
ソビエツト連邦(公式名はソビエツト社会主義共和国):15の共和国から成る嘗ての連邦、アジアの北半分と東ヨーロツパの一部から成り、ロシア、白ロシア、ウクライナ、エストニア、ラトヴィア。リトアニア、ゲオルギア、アルメニア、モルドヴァ、アゼルバイジャン、カザクスタンを含む。
そして当時これらの非常に大きく非常に強力な二つの国は、何れ世界史におけるトーナメント・ゲームの最終戦として激突する以外の可能性は無いと、私には見えた。またその際には、広島、長崎において使われた原子爆弾の数十倍の威力を持つ原子爆弾が使われるであろうから、それによつて与えられる地球表面の被害も、想像を絶するものであろうと覚悟せざるを得なかつた。したがつて私は、仮にUSAとUSSRとが第三次世界大戦として激突した場合、数千年に亘つて築き上げられて来た壮大な文化の内、非常に貴重な部分が崩壊するであろうし、そのような形で崩壊した文化は、二度と地上に姿を現わして来ることは、先ず不可能であろうと覚悟した。
特に広島、長崎において原子爆弾の被害を実際に経験しているわれわれ日本人としては、現実の場面における被害の酷さを知つているだけに、何とかして第三次世界大戦の発生を防ぎたいと念願はしたものの、第一次、第二次の世界大戦を実際に経験しているだけに、第三次世界大戦を防止することは全くの夢であつて、われわれが如何にその事を期待したとしても、それを地球の表面において具体化することは全く不可能であると考えられた。
しかし実際には、われわれ人類は第三次世界大戦を実際に起こして、無限の価値を持つた文化遺産の重要な部分を、何の理由もなしに灰と瓦礫の山にしてしまう程愚劣ではなかつた。したがつて私は、われわれ人類が聡明にも第三次世界大戦を経験する事無しに、平和的な和解の道を発見することが出来たというニユースを聞いた時には、文字通り小躍りして喜んだ。そしてわれわれ人類が、何千年にも亘つて築き上げて来た貴重な文化を、何の意味も無しに破壊する程愚劣では無かつたことに、無限の感謝を捧げた。
恐らく世界の政治局面においても、眼に見えない多数の人々の努力があり、また人々の眼には触れない背後の世界においても、貴重な努力が続けられたものと考えられるけれども、それと同時に米ソの和解に関して非常に重要な役割を果たしたソ連の大統領ミハイル・ゴルバチェフに対して、無限の感謝を捧げたい。
ミハイル・エス・ゴルバチェフ(1931〜2007):ソヴィエツト連邦大統領(1990〜91)。1952年以来共産党党員で、彼は1979年に常任委員会のメンバーに選ばれ、次いで翌年政治局員に選ばれた。1985年の3月、コンスタン・チェルネンコの死去に伴つて、ソヴィエツトのリーダーとなり、ソヴィエツト連邦国務長官としての地位に立つて、指揮を取つた。
ゴルバチョフはペレストロイカと呼ばれるソヴィエツト社会における経済及び社会の改革を実行し、自由化の緩慢な前進とソヴィエツトにおける高度技術の導入を指導した。外務大臣のエドワード・シュワルドナゼと協力して、ヨーロツパにおける原子力を削減する武器管理条約を西欧諸国との間で締結した(1987)。彼はアンドレイ・サカロフを含む多数の反政府主義者を拘禁状態から釈放し、ロシア民族は始めて、スターリン政権の時代から悪用されていた人間性の侵害に関する極悪非道を聞かされた。ゴルバチェフは多数の憲法改正に関して主導権を取り、それによつて人民の代議員選挙は直接選挙となり、それ以来、議会はゴルバチェフを当然の権利として大統領に選出することが出来るようになつた。彼は湾岸戦争を支持した。しかし彼は保守主義者や官僚独裁による抵抗を受けた反面、一方では組合における代議員の共和体制が、絶えず独立の方向を求めていた。ゴルバチェフは1996年の大統領選挙で権力を再度獲得しようとして、イェルツインに対して挑戦をしたが、ある種の事情から成功しなかつた。
そしてこのようにゴルバチェフの政治的な経歴を読んで行くと、もしもあの当時ゴルバチェフが地球上に存在しなかつたならば、人類は第三次世界大戦を止める事が出来なかつたのではないかと思う。そして私はわれわれ人類が遂に第三次世界大戦を止めたことに対して、非常に大きな幸福を感じる。
(3)人間主義と仏道との合一
1)人間主義
人間主義という歴史的な事実は、内容が広範であると同時に複雑であり、容易に理解し難い性格を持つている。しかしそのような文化活動が、既に古代ギリシャの時代に存在し、人間文化の流れの中で明確な足跡を残していることも、歴史的な事実である。
2)ストア学派
人間主義的な流れの一つの例として、ストア学派の学風を考えて見ると、その創始者はキプロス島のゼノンと考えられているが、彼はアテネにおいてストア・ポイキレー(彩色された学堂)と呼ばれる建物で講義を行つた処から、ストア学派と呼ばれるようになつた。
彼等の学問は、論理、物理、倫理の三科目に分かれていたが、彼等の主張によれば、論理と物理とは倫理を説明する為の基礎学科であり、倫理学が学問の中心であつた。したがつて彼等の学問の中心は、道徳的な努力を積み重ねて、人生に於ける生き方を確立することにあつた。
別の言葉を使えば、賢者と呼ばれる人格を完成する事であり、賢者とは俗世間における変化から超然とする事の出来る人格であり、感情的な起伏から影響を受けない人格を完成することであつた。ストア学派はそのような身心の状態をアパテイアと呼ばれる感情的な起伏のない状態として捉え、そのような状態に達した人の事を賢者と呼んだ。
しかも賢者の生活は、[自然に従つて生活すること」であつた。そして自然とはロゴス即ち理性の意味であつたから、広くは一切の事物に通じる秩序であり、狭くは人間性であつた。したがつて自分自身が自然の本性に従うことは、宇宙の秩序に従う事と同じ意味であり、欲望は自然に背き理性に逆らうものであつたから、賢者は自分の意思を一般の自然法則と一致させ、自分自身が自然の本性即ち理性の命令するままに行動することによつて、欲望の束縛から離脱する事が出来ることを主張した。宇宙の法則、天地の教えに服従せよという教えが、ストア学派の根本思想であつた。(この項は主として「哲学事典」平凡社及び波田野精一著[西洋哲学史要」大日本出版株式会社発行に依拠した。)
3)ストア学派と仏道
古代ギリシャから古代ローマの末期に掛けて存続した、ストア学派の哲学を振り返つて見ると、その哲学体系が余りにも佛教哲学の思想体系に似ている点では、大いに驚かされる。
(1)ストア学派と仏道とは、共に理知的な哲学の二大潮流である観念論と唯物論との二つの流れとは、必ずしも同調的でないこと。
(2)ストア学派と仏道とは、観念論の基礎である思考の哲学と、唯物論の基礎である感覚の哲学とを離れ、両者の中間にある行為の上にその基礎を置くこと。
(3)したがつてストア学派と仏道とは、主張が極めて道徳的であること。
(4)ストア学派は道徳的であることの基礎として、アパテイアと呼ばれる感情的な起伏のない状態を尊重したが、アパテイアが仏道におけるサマデー(禅定)と同一の内容を指示する可能性が高いこと。
(5)ストア学派では、アパテイアの状態の中に居る人の事を賢者と呼んでいるが、この賢者という概念と仏道に於ける仏陀とが、同一の人格を指している可能性があること。
(6)賢者の生活は、[自然に従つて生活すること」であつたから、それはロゴス即ち理性に従つて生きることであり、広く一切の事物に通ずる秩序であり、狭くは人間性であつたこと。
(7)したがつて自分自身が自然の本性に従うことは、宇宙の秩序に従う事と同じ意味であり、欲望は自然に背き理性に背くものであつたから、賢者は自分の意志を一般の自然法則に一致させ、自分自身が自然の本性即ち理性の命令するままに行動することによつて、欲望の束縛から離脱する事が出来るとした事。
(8)仏道の世界において人間は、宇宙の法則、天地の教えダールマに服従するべきであると説かれたことと、ストア学派における宇宙の法則すなわちロゴスとが、極めて類似した思想であると考えられること。
等の事実から見て、ストア学派と仏道との間には、あまりにも顕著な同一性が認められる。
4)人間主義と仏道と世界
われわれ人類は余りにも長い時代に亘つて、観念論と唯物論との対立に悩まされて来たように思う。われわれ人類はあまりにも優れた思考能力に恵まれている処から、古代ギリシャにおけるプラトー以来、人類特有の思考能力に恵まれて壮大な観念論哲学の恩恵に恵まれて来た。しかしそれと殆ど同時代に於いて、古代ギリシャはデモクリトスの唯物論を持ち、この世の中を原子と呼ばれる物質の最小単位を基準とした集合体として考えて行く唯物論的な考え方も同時に存在した。
そのように人類の歴史を、人間の理知を基準として考えるならば、唯心論と唯物論との対立として捉えることも可能ではあるけれども、更に理知の世界を一歩踏み越えて、行為の世界、現実の世界に踏み込んだ場合、欧米の数千年の歴史の中に、明らかに人間主義と呼ぶ事の出来る文化の流れの存在を観得することが出来るように思われる。
そして欧米の文化の中に豊かに流れている人間主義の文化を、明らかに独立した一つの哲学体系として取り上げている思想が、佛教哲学であると思う。
「四諦の教え」 釈尊の教えの出發点である「四諦」の教えの意味は、現代語における表現で表わすならば、観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという四つの夫々独立した哲学思想を意味するのであり、釈尊はわれわれ人間に対して、頭の中で考えた思考の哲学と、感覚器官を通して得た外界の刺激を基礎とした感覚の哲学と、人間の日常生活における行為を中心とした行為の哲学と、それら三つの哲学を全て包含した現実そのものという四つの独立した哲学を説き、そのような四段階の全く独立した哲学の綜合の中に、真実と呼ぶ事の出来る哲学が隠されていることが、主張されている。
「因果の理法」「因果の理法」とは、例えば自然科学の中で、この世の中の一切の物質は、100%原因結果の法則に支配されていると云う原則を信じる事と同じ内容を持つて居る。しかも仏道に於ける「因果の理法」は単に物質だけの世界ではなく、この世の中の一切が自然科学の場合と同じように,100%原因結果の法則に支配されている事を主張している。
「刹那生滅の道理」仏道では行為の哲学に於ける一環として、現実の時間は現在の瞬間に於ける一瞬だけであり、過去も実在ではなく、未来も実在ではない事を主張する。そして現実の時間が現在の瞬間における一瞬だけであるという事実から,われわれの行為も現在の瞬間における実在でしかないということが主張され、此の理論が人間は原因結果の理法の中で完全に束縛されて居りながら、しかも極めて短い現在の瞬間において、人間の行為は100%自由である事の解説に使われている。
「現実」したがつて現実とは,現在の瞬間における行為であり、現在の瞬間における人間の行為が、宇宙の全てであるという理解を持ち、自律神経のバランスした状態の中で行われる人間の行為が、このよの中の真実である事が主張されている。
道元禅師が説かれた正法眼蔵の中では、以上のような「四諦」と「因果の理法」と「刹那生滅の道理」と「現実そのもの」とが繰り返し説かれているけれども、それと同時に道元禅師は、これらの「四諦」、「因果の理法」、「刹那生滅の道理」、「現実そのもの」という四つの理論が、すべてわれわれが日々実行している坐禅の修行から現れて来るのであるから、もしもこの21世紀において、此の道元禅師の説かれた佛教哲学と、欧米において実際の歴史として経過した人間社会の実情とが合流するならば、人類は欧米における輝かしい人間主義の文化を、佛教哲学の論理にしたがつて宗教的に確定する事となり、坐禅と人間主義とに守られた輝かしい人類の黄金時代を迎える事になるであろう。
私は満16歳の秋に、栃木県の大中寺で沢木興老師から、道元禅師のお書きになつた[普勧坐禅儀」のご提唱を伺い、われわれが絶えず求めている真実が、二千数百年前に説かれた釈尊の教えの中に、既に明確に説かれているという直感的な確信を得たのであるが、その際感じた事の一つは、この教えは単に日本だけではなく、世界全体に対して説かれる事の必要な教えであるという確信であつた。したがつてそれ以来、何とかして仏道を日本において復活させたいという念願を持つてはいたけれども、それと同時に正法眼蔵その他の道元禅師がお書きになつた佛教書を出来るだけ多く外国語に直し、仏道の教えが一体どのような教えであるかという事実を、広く世界に知らせる事を考えて来た。何故かというと私は小さい時から、単に日本だけとか単に東洋だけとかでしか評価されない思想は、本当の意味では文化的な価値を持たないと考えて来たからである。
したがつて長い年月に亘つて仏道の探求に努力を払い、その海外での普及にも努力して来たが、その過程では絶えず欧米の歴史の中おける文化の変遷と、仏道思想との関係を考えて来た。そして欧米における思想も正に人類の思想である以上、その中には必ず佛教思想と非常に類似した思想も含まれている筈であると確信して来た。その結果最近に至り、佛教思想と非常に近い思想として、欧米における人間主義を考えている。
一般的に考えて古代ギリシャの文明は、その時代におけるギリシャの都市国家が外国と戦い、戦勝の結果手に入れた奴隷の労力を基礎とした文明ではあつたけれども、都市国家の市民は比較的豊かな経済的な余力と恵まれた余暇とを拠り所として、当時としては非常に珍しく高い水準の文化を形成する事が出来た。そしてそのような文化がローマの世界に移り、やがてローマ帝国が持つた強大な軍事力を背景としてヨーロツパ全土に広がつた。その後、中近東で生まれたキリスト教信仰が、ローマ帝国やその周辺に広がり,人間社会の文化を一時禁欲的に抑制して、文化の熟成を図る自制の時代もあつたけれども、やがてイタリヤを中心としてヨーロツパ全土がルネツサンスの時代を迎えた。そして神と人間との中間にカソリツク教会の仲介を必要とする旧教の立場を離れて、神と人間との直結を主張する新教の誕生があつた。そこで旧教の唱えていた天動説が力を失う過程と呼応して、科学の急速な発達が始まり、機械を活用した効率的な生産が進み、アメリカの独立、フランス革命、アメリカにおける南北戦争、第一次,第二次の世界大戦を経た上で、人類は聡明にも第三次世界大戦を防止する事が出来た。勿論共産主義国家の今後、イスラム文化との協調、アフリカ社会の改善等を考えた場合、今日でも世界の
現状には、解決しなければならない問題が山積しいると考えられるけれども、それと同時に数千年以前の人類社会の未開発状態とその後に人類が展開した進歩の過程とを考えて来ると、やはりわれわれ人類は、人間そのものの偉大さに驚嘆しなければならないような歴史的な事実が、はつきりあるように思う。
(2)世界史における人間主義
そこで仏道と人間主義との密切な関係を説明する最初の糸口として、先ず世界史において人間主義が辿つた歴史的な事件の概略を振り返つて見たい。
1)グレコ・ローマン文明以前
グレコ・ローマン文明以前においては、人間主義の文明が極めて乏しい処から、その描写を省略する事としたい。
2)古代ギリシャ時代
古代のギリシャにおいては、多数の都市国家が存在した。そしてそれらの都市国家は、他所の国との戦争によつて得た敗戦国の国民を、奴隷とすることによつて得られた労働力を、経済活動の基礎とすることによつて文化が形成されたのであるが、それらの労働力に支えられた市民自身の生活は、比較的高い水準の生活と余暇とを与えられて居り、そのような生活環境を活用して、世界で最初の高い水準の文化を形成することが出来た。そしてそのような文化水準を背景として、彼等は文化の中で人間そのものを大切にする人類最初の人間主義を実現することが可能となつた。
その中でも特に有名な文化の一つは、プラトー(427〜347B.C.) によつて説かれた観念論哲学である。プラトーはこの世の中で実際に実在するものは、物質ではなくわれわれの頭の中で作り出される観念である事を主張した。そしてその例証の一つとして数学を取り上げ、1足す1は2であるというような理論が、われわれの眼の前に見えている物質よりも更に信頼のおける実在であることを主張した。この主張はわれわれ東洋人にとつては非常に意外な思想であり、われわれ東洋人の日常生活の中では、容易に了承し憎い主張ではあるけれども、欧米の文化の中では、極めて理論的な欧米文化の出發点となり、われわれ自身の文化の中においても、非常に重要な拠り処となつている。
しかしそれと同時に古代ギリシャにおいては、観念論とは全く正反対の哲学も同時に発達した。それが例えばプラトーと殆ど同時代に生きたデモクリトス(460〜360B.C.) によつて説かれた唯物論である。彼は現にわれわれが住んでいるこの世の中は、アトムと呼ばれる物質の最小単位の寄り集まりであり、精神的なものでは全くない事を主張した。このように古代ギリシャにおいては、それぞれの人間が自分の考え出した思想を自由に主張する立場が許され、そこに住む人々は人類の歴史の中で、それ迄は全く期待することの出来なかつた人間としての自由を、人類の始めての経験として味わうことが出来た。
そしてそのように人類の思想的な自由の許された古代ギリシャの世界においては、われわれ人類の生活目標を唯快楽の追求だけに限定する哲学も生まれた。それがエピクロス(341〜270)の開いたエピクロス学派である。エピクロスは哲学が個人の幸福を考究する学問である事を強調し、哲学が処世の為の手段を考究する学問であることを強調した。彼の意見によると、学問も道徳も学問や道徳そのものに価値があるのではなく、快楽を得る為の手段としてのみ価値があるとされた。彼はこの世の中がアトムという原子の集合体であると考えていたから、その点でも唯物論的であり、感覚的な刺激を人生最大の関心事とした点でも、唯物論的であつた。
またエピクロス学派と殆ど同時代に、ストア学派と呼ばれる学派も存在した。創始者はゼノン(336〜264B.C.) と呼ばれる哲学者であるが、ソクラテスを非常に尊敬し、人間の価値は、頭脳の働きや感覚の鋭さよりも、人間としての行為の正しさを最大の基準とした。したがつて世俗の価値観を離れ、完全に自由な生活が可能となつた賢者の境涯を最高の人生と考え、そのような状態をアパテイヤ(心が動揺しなくなつた状態)と呼び、そのような状態で生きる事を人生における最高の姿と考えた。この思想はその哲学的な体系が、われわれが絶えず勉強している佛教哲学と非常に似ているように思う。例えばわれわれの人生における価値として、(1)世俗的な名誉や利得を考慮の外に置いた事、(2)客観的な外界世界の実在を認めた事、(3)思考や感覚的な刺激よりも、日常生活の実践の中に人生の最高価値を認めたこと、(4)人生の最高の基準を、アパテイヤ、すなわち心が動揺しなくなつた状態の中に求めた事が、佛教哲学の思想構造と非常によく似ている事が感じられる。
3)古代ローマおよびローマ帝国の時代
古代ギリシャで生まれた観念論、唯物論、エピクロス学派、ストア学派等のさまざまの哲学は、やがて地中海を渡つてローマに上陸した。中でもエピクロス学派は、感覚的な刺激を大切にするローマ市民の気風と合致し,広く受け入れられたが、それと同時に日常生活における正しさを重用視するストア学派も、実践を重んじ道徳を重んじるローマ市民の生活を形成し、ローマが強大な軍隊を組織して、遠隔の地域の支配に成功することが出来た理由も、ストア学派に基ずく道義的な生活態度がその原因を作つたのではないかと考えられる。ストア学派はパナイテイオス(180〜110B.C.) によつてローマに伝えられたが、ポセイドニオス(約135〜約51B.C.)、セネカ(約4〜65A.D.)皇帝マルクス・アウレリュウス・アントニーヌス等によつて引き継がれた。
ローマ帝国は法律を基準とする国家統治や、秩序のある軍隊や、優れた文化に助けられて、殆どヨーロツパ全土に亘つて膨大な領土を獲得する事となつたが、思想的には可成り様々の主張が混在し、必ずしも安定した状態ではなかつた。しかし一世紀の前半にイスラエルにおいて成立したキリスト教が、パウロ等の努力によりローマにも広まり始めた。そしてローマ帝国においては、皇帝ネロから皇帝デオクレテイアヌスに至る約250年間に亘つては、極めて激しい弾圧が行われため、信者はカタコームと呼ばれる秘密の礼拝所で信仰を続けた。しかしそのように厳しい弾圧が行われたにも拘らず、(1)ローマ社会が転換点に差し掛かつていたこと、(2)神の前では全ての人々が平等であるというキリスト教思想が、一般の人々に受け入れられたこと、(3)信者がグレコーローマンの文明と妥協したこと、(4)世界的普遍的なキリスト教の性格が、ローマ帝国の世界性と合致したこと、(5)国際語としてのギリシャ語が布教に使われたこと等が幸いして、380年には皇帝テオドシウスは、ローマ帝国の全人民に対して、正統のキリストを信ずることを命じた。続いて392年にはキリスト教をローマ帝国の国教と定め、他の神々の礼拝を禁じた。この事は当時のローマ帝国の人々並びに周辺国の人々が、如何に世界の存在を意識し始め、世界全体を統率する事の出来る唯一に真実を求め始めたことを示していると考えられる。
4)封建制の時代
ローマ帝国の末期には、既にキリスト教そのものが社会全体を支配する状態に進んではいたが、更に封建制と呼ばれる社会体制が広がるに連れて、キリスト教の人間社会に対する支配も、一層強いものになつて行つた。元来、封建とは国王が領主に与えた土地を指すのであるが、人類の文化が進み人口が増加して、未開拓の土地が殆ど無くなつた時代から生まれる制度である。そしてヨーロツパにおいても、ローマ帝国の末期に多数の異民族がローマ社会に乱入し、諸国の支配権を確立し始めると同時に生まれた制度である。この制度においては領主が土地の所有権を持ち、それを農民に管理させて耕作させると同時に、その収穫の一定割合を領主に献納する形で、制度の運営が行われた。しかも農業生産による作物の収穫率は決して高いものではなかつたから、当時の住民は子孫の増殖を制限する事によつて、苦しい生活状態に対応することが必要であつたから、男女の肉体関係を罪悪視して子孫の増殖を防ぐキリスト教的な考え方が、当時の経済情勢に適合した考え方でもあつた。したがつて一般民衆に行き亘つたキリスト教信仰も、一方的に人間性を抑圧する思想として受け取ることは片手落ちであり、当時の社会情勢から考えた場合,人間社会の安定の為には欠く事の出来ない規制であつたと考えられる。
5) ルネツサンス
イタリヤの諸都市では、11〜12世紀の頃から東方との貿易が盛んとなり、ヴェネツイヤやジエノア等の沿岸都市は東方貿易に従事し、特に十字軍時代には遠征の通路、兵員,資材、船舶の供給地となり,十字軍以後も東方貿易によつてますます発展した。またフイレンツエ、ミラノ等の内陸都市においては、毛織物工業、絹織物工業が発達した。その結果、富裕市民層を中心として、封建制時代よりも更に遡つて古代ギリシャ・ローマの人間主義に根ざした文化をもう一度勉強し直そうという文化活動が、急激に高まつた。ルネツサンスとは文字通り「もう一度生まれる」という意味であり、古代のギリシャ・ローマにおいて盛んであつた人間主義の文化を、もう一度地上に再現させようという動きであつた。。
先ず古代ギリシャや古代ローマにおける古典の研究が盛んと成り、キリスト教発生以前のおおらかな人間主義の文化を学び直す事が始まつた。そしてダンテ、ペトラルカ、ボツカチオ等のフイレンツエ人が、古代のギリシャ・ローマの人間主義から深い影響を受けた作品を残した。また建築,彫刻、絵画等においても、ミケランジエロ、ボツテイチエリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラフアエロ等の天才的な芸術家が輩出した。
科学や技術の世界においても、鉱山学、人体構造、解剖学等の研究が進み、火薬,羅針盤、活版印刷等の発達に依り、文化に急速な進歩を与える結果となつた。そしてこのような目覚ましい進歩は、ネーデルランド、ドイツ、フランス、スペイン、イギリスに広がり、各地においてやはり目覚ましい進歩を遂げた。
そして天文学の世界においても、従来大地が不動であり、太陽が動いていると云う主張が行われていたキリスト教会に対して、太陽を中心にして地球がその周囲を動いているという天文学者の主張が、最終的には勝利を収めた経緯は、その後の人類に対して革命的な影響を与えた。
要するにルネツサンスは、封建制社会に依つて一時抑圧された人間主義の文化を、もう一度復活しようとするヨーロツパ全体の動きであつたと考えられる。
6)宗教改革
人間主義の動きは、宗教の世界にも広まつた。ドイツの神学教授であつたマルチン・ルーテル(1483〜1546)は、ウィテンベルグ教会の扉に95条からなるキリスト教会に対する質問状を貼りつけ、カソリツク教会の態度、特に当時教会が教会維持のために発売していた贖宥符の販売を非難した。そして彼は、キリスト教徒の行為は常に聖書の記載に従つて行うべきであることを主張した。しかもそのような主張は、封建君主や自主独立の市民や人間主義的な作家や封建制度の中で非常に苦しい生活を余儀なくされている農民等によつて支持された。
またルーテルと殆ど同じ時期に、やはり人間主義的な神学者であつたジアン・カリヴィン(1509〜64)は、フランス政府の迫害を恐れてスイスに逃れた。彼の思想もルーテル
の思想と同じように、キリスト教徒は常に聖書に書かれた教えにしたがつて行動すべきであるという教えであつたから、人間主義の主張から少し離れてはいたけれども、新教的な労働の尊重に助けられて、近代的な商業主義の活動、近代的な機械工業による生産が非常に力付けられた。
第三者的な立場から見ると、キリスト教の信者が神と人間との間に、カソリツク教会の存在を必要とするか否かは、あまり本質的な問題とはならないように思われるけれども、人間主義の立場から考えるならば、神と人間とが直接の交渉を持つ事に、大きな意味が有る事であろう。その点では宗教改革における旧教から新教への転換も、人間主義的な要請の一つの前進であつたと考えられない事もない。そしてイギリスやフランスにおける清教徒と呼ばれる熱心な新教徒の人々が、その純粋な信仰を維持するために、アメリカ大陸に移住したことが、やがてアメリカ合衆国独立の一つの原因となつて居る歴史的な事実を認める事が出来る。
7)アメリカ合衆国の独立
16世紀の中頃から、イギリスにおける清教徒の人々が、信仰の自由を守りたいという動機から、北アメリカの東海岸に移住する動きが始まり、その数は次第に増加した。そして第18世紀の初期には、十三の州が設立された。
しかしイギリス政府はそれらの州に対して、かなり厳しい態度を取つた処から、植民地の人々がイギリスからの独立を強く希望するようになり、1775年にボストン郊外のレキシントン及びコンコードの戦いから、戦闘が開かれた。
戦争の初期においては、独立軍の勢力はあまり強くなかつたが、次第にフランス、スペイン、オランダ等が独立軍を支援するようになつたため、独立軍が次第に強さを増し、更にロシヤ、スエーデン、デンマーク、ポルトガル、プロシャは、中立を守ることを約束した。そこでイギリスは稍孤立化し、1783年にパリで開かれた平和条約において、戦争を集結した。
このような歴史的な事件も、われわれは人間主義の前進に関する輝かし前進の一例と考える事が出来るし、このアメリカ合衆国の独立が、やがてヨーロツパ大陸において起こつたフランス革命を、おおいに刺激したことも考えられる。
8)フランス革命
16世紀におけるフランスの政治哲学者ジアン・ボルダンは、一般に国王が持つている統治権は神から与えられたものであるから、神聖であり絶対であるという意見を述べている。しかし17世紀,18世紀になると、例えばヴォルテール(1694〜1778)、モンテスキュウ(1689〜1755)やルツソー(1712〜78)は同じ問題を、もつと人間的な観点から捉え始めている。そしてそのような人間主義的な国家権力の理解が、さまざまの通信網を通じて、国内に広がり始めていた。その結果フランス国民は、少しずつ彼等を支配し続けて居る彼等の政府と、彼等自身が置かれている政治的な実情との関係に気付き始め、政府の政策を強く批判するようになつた。そこで政府は、政府に対して激しい非難を浴びせる国民を、政治的な犯罪者として刑務所に収容したが、そのような状況から、全国の刑務所がそれらの政治犯によつて溢れる結果となつた。そして1789年の7月14日、多数の主婦が食料の不足から政府に対するデモ行進を行つたが、その余波がバステイーユの刑務所に到達し、多数の政治犯を釈放したことが、フランス革命の發端となつた。
しかもこのような政治的な混乱は、殆どフランス全土に波及したところから、1791年の10月から新しい議会が開かれたけれども、穏健派のジロンド党と過激派のジャコバン党とが対立した。したがつて穏健派のジロンド党が内閣を組織したけれども、オーストリアやプロイセンの了解が得られず、両国はフランスに対して宣戦を布告した。しかしフランス軍がそれ程強力でなかつた処から、それらの外国軍隊はフランス国内に侵入したため、国内の過激派が勢力を回復し、彼等が遂にルイ16世とその家族を殺害する結果となつた。そこでフランスは更に困難な状況に追い込まれることとなり、最終的には1802年にナポレオンの軍事力によつて救われるまで、問題を解決することが出来なかつた。
9)アメリカ合衆国における南北戦争
アメリカ合衆国においては、1854年に共和党が始めて結成されたが、第16代目の大統領として、アブラハム・リンカーンが共和党から始めて選出された。しかも彼は奴隷制の廃止を主張する政治家として有名であつたから、彼の大統領就任以来、奴隷制廃止の運動が俄に活発となつた。
しかし合衆国の南部地域においては、非常に広大な地域に亘つて木綿畑の開拓が既に行われて居り、その耕作者達は木綿畑の耕作の為に、どうしても奴隷労働者の存在を必要とするように見受けられた。そこで合衆国の南部の11州が、木綿栽培の為に必要な奴隷制度を維持するために、合衆国からの独立を希望した。その結果、合衆国内における独立戦争が勃発し、1861年にいわゆる南北戦争が開始された。そして戦争開始の当初は南軍が優勢であつたが、北軍の方が武器の生産が順調に進み、人口の豊かさにおいても北軍が優れていた処から、次第に北軍が優勢となり、遂に1865年に北軍が勝利を収める結果となつた。
そして単に一国の国内戦争においても、奴隷制度を廃止しようとする人間主義的な勢力が勝利を収めたという歴史的な事実の中に、人間主義の人類社会に於ける決定的な方向を読み取ることが出来るように思う。
10)第一次世界大戦
1914年の6月28日に、オーストリアの皇太子夫妻がボスニヤ州の首都サラエボにおいて,セルビアの一学生によつて殺害された。そこでオーストリアとドイツとはセルビア地方を攻撃したが、逆にロシヤがセルビア地方を助け、やがてフランスとドイツとの間でも戦闘が開始された。次いでイギリス、ベルギーも中立をドイツによつて侵害されたことを理由として参戦したところから、殆ど全世界を巻き込む第一次世界大戦に発展した。
戦闘は1918年まで継続されたが、戦局はドイツ、オーストリア、オトマン・トルコ等にとつて不利となり、戦闘は11月11日に停止された。次いで1919年の1月に、第一次世界大戦の戦勝国である連合国27か国の代表がパリに集まり,同年6月28日に平和条約がヴェルサイユ宮殿で調印されたが、内容はドイツ、オーストリアにとつてかなり厳しいものであつた。
11)第二次世界大戦
1931年に日本は稍謀略的な手段で、中国のマンチュリアと呼ばれる東北地方を占拠し、満州国と呼ばれる傀儡政権を樹立した。そして1932年と1936年とには、小規模のクーデターが起こり、当時の内閣総理大臣、大蔵大臣,財界の重要人物等が殺害された。しかもそれを契機として、日本国内には軍部の意向を無視して、政治活動を行う事が実質上不可能になつた。
丁度そのような時期に、ドイツではナチ(国民社会主義ドイツ労働党)と呼ばれている政党が、短期間の内に強大な勢力を得て、その指導者であるアドルフ・ヒツトラーが,1933年には大統領ヒンデンブルグによつて、首相に任命された。しかし彼はまず議会を解散し、新議会で全権委任法を成立させた上で(1933年3月)、1934年8月にヒンデンブルグ大頭領が死去すると、自ら大統領と首相の地位を兼ね、完全に独裁体制の国家を建設した。
またイタリアにおいても、ベニト・ムツソリーニが1919年にイタリア・フアシスト党を結成し、その3年後には一斉に黒シャツを着用して、ローマに向つて音楽行進をした。そして総理大臣に任命されて以降は、独裁制の体制に向かつて政府を組織した。
そして第二次世界大戦は、日,独、伊の枢軸国と英、ソ連、合衆国の連合国との間で行われた。ドイツは秘かに再軍備を行い、ヒツトラーはヴェルサイユ平和条約に違反して、1936年にラインランドに侵入した。そして同じ年にイタリアのファシスト独裁者であるベニト・ムツソリーニは、ベルリン・ローマ枢軸を作つてヒツトラーと同調し、1937年にイタリーは
ドイツと日本との間における防共協定を保証した。
それ以降ドイツはその周囲の数カ国を侵略し、イタリアもまた1935年から1936年に掛けてエチオピアを侵略し、日本もまた1941年の12月に真珠湾における合衆国艦隊を攻撃して、合衆国が英国側に立つて参戦することの口火を開いた。
連合国軍の西ヨーロツパ侵入は、1944年の6月におけるノルマンデイ作戦以降始まつたが、1945年の5月ヒツトラーがベルリンで自殺をした後に、ドイツが降伏した。
太平洋作戦は日本の海軍を壊滅させ、1945年の8月6日、9日における広島、長崎に対す
る原子爆弾による攻撃を頂点とする、合衆国の日本に対する策戦的な重爆撃は、一ヶ月後における日本の降伏を導いた。
日本やドイツやイタリーは、その帝国主義や独裁制や軍国主義によつて、それらの国々が抱えていた植民地獲得の劣勢を回復しようとしたのであるが、そのように難しい仕事を達成するためには、日独伊三国は少し遅かつたように思う。人間主義や民主主義が発達した結果、世界の人々は、植民地獲得の競争時代に逆戻りすることを好まなかつたように思う。
12)第三次世界大戦の回避
第二次世界大戦の後、アメリカ合衆国とソビエツト連邦とが、地球上の二大勢力として頭角を現わして来た。戦時中における彼等の連合は、戦後3年も経たない内に崩壊し、冷戦が進むに従つて二つの国家群は相互に、原子力にもとずく再軍備計画を開始した。
アメリカ合衆国:世界で四番目の大国。アラスカ、ハワイ、ペルト・リコ、及び太平洋の多数で細かい諸島を含む北アメリカの中央帯。
ソビエツト連邦(公式名はソビエツト社会主義共和国):15の共和国から成る嘗ての連邦、アジアの北半分と東ヨーロツパの一部から成り、ロシア、白ロシア、ウクライナ、エストニア、ラトヴィア。リトアニア、ゲオルギア、アルメニア、モルドヴァ、アゼルバイジャン、カザクスタンを含む。
そして当時これらの非常に大きく非常に強力な二つの国は、何れ世界史におけるトーナメント・ゲームの最終戦として激突する以外の可能性は無いと、私には見えた。またその際には、広島、長崎において使われた原子爆弾の数十倍の威力を持つ原子爆弾が使われるであろうから、それによつて与えられる地球表面の被害も、想像を絶するものであろうと覚悟せざるを得なかつた。したがつて私は、仮にUSAとUSSRとが第三次世界大戦として激突した場合、数千年に亘つて築き上げられて来た壮大な文化の内、非常に貴重な部分が崩壊するであろうし、そのような形で崩壊した文化は、二度と地上に姿を現わして来ることは、先ず不可能であろうと覚悟した。
特に広島、長崎において原子爆弾の被害を実際に経験しているわれわれ日本人としては、現実の場面における被害の酷さを知つているだけに、何とかして第三次世界大戦の発生を防ぎたいと念願はしたものの、第一次、第二次の世界大戦を実際に経験しているだけに、第三次世界大戦を防止することは全くの夢であつて、われわれが如何にその事を期待したとしても、それを地球の表面において具体化することは全く不可能であると考えられた。
しかし実際には、われわれ人類は第三次世界大戦を実際に起こして、無限の価値を持つた文化遺産の重要な部分を、何の理由もなしに灰と瓦礫の山にしてしまう程愚劣ではなかつた。したがつて私は、われわれ人類が聡明にも第三次世界大戦を経験する事無しに、平和的な和解の道を発見することが出来たというニユースを聞いた時には、文字通り小躍りして喜んだ。そしてわれわれ人類が、何千年にも亘つて築き上げて来た貴重な文化を、何の意味も無しに破壊する程愚劣では無かつたことに、無限の感謝を捧げた。
恐らく世界の政治局面においても、眼に見えない多数の人々の努力があり、また人々の眼には触れない背後の世界においても、貴重な努力が続けられたものと考えられるけれども、それと同時に米ソの和解に関して非常に重要な役割を果たしたソ連の大統領ミハイル・ゴルバチェフに対して、無限の感謝を捧げたい。
ミハイル・エス・ゴルバチェフ(1931〜2007):ソヴィエツト連邦大統領(1990〜91)。1952年以来共産党党員で、彼は1979年に常任委員会のメンバーに選ばれ、次いで翌年政治局員に選ばれた。1985年の3月、コンスタン・チェルネンコの死去に伴つて、ソヴィエツトのリーダーとなり、ソヴィエツト連邦国務長官としての地位に立つて、指揮を取つた。
ゴルバチョフはペレストロイカと呼ばれるソヴィエツト社会における経済及び社会の改革を実行し、自由化の緩慢な前進とソヴィエツトにおける高度技術の導入を指導した。外務大臣のエドワード・シュワルドナゼと協力して、ヨーロツパにおける原子力を削減する武器管理条約を西欧諸国との間で締結した(1987)。彼はアンドレイ・サカロフを含む多数の反政府主義者を拘禁状態から釈放し、ロシア民族は始めて、スターリン政権の時代から悪用されていた人間性の侵害に関する極悪非道を聞かされた。ゴルバチェフは多数の憲法改正に関して主導権を取り、それによつて人民の代議員選挙は直接選挙となり、それ以来、議会はゴルバチェフを当然の権利として大統領に選出することが出来るようになつた。彼は湾岸戦争を支持した。しかし彼は保守主義者や官僚独裁による抵抗を受けた反面、一方では組合における代議員の共和体制が、絶えず独立の方向を求めていた。ゴルバチェフは1996年の大統領選挙で権力を再度獲得しようとして、イェルツインに対して挑戦をしたが、ある種の事情から成功しなかつた。
そしてこのようにゴルバチェフの政治的な経歴を読んで行くと、もしもあの当時ゴルバチェフが地球上に存在しなかつたならば、人類は第三次世界大戦を止める事が出来なかつたのではないかと思う。そして私はわれわれ人類が遂に第三次世界大戦を止めたことに対して、非常に大きな幸福を感じる。
(3)人間主義と仏道との合一
1)人間主義
人間主義という歴史的な事実は、内容が広範であると同時に複雑であり、容易に理解し難い性格を持つている。しかしそのような文化活動が、既に古代ギリシャの時代に存在し、人間文化の流れの中で明確な足跡を残していることも、歴史的な事実である。
2)ストア学派
人間主義的な流れの一つの例として、ストア学派の学風を考えて見ると、その創始者はキプロス島のゼノンと考えられているが、彼はアテネにおいてストア・ポイキレー(彩色された学堂)と呼ばれる建物で講義を行つた処から、ストア学派と呼ばれるようになつた。
彼等の学問は、論理、物理、倫理の三科目に分かれていたが、彼等の主張によれば、論理と物理とは倫理を説明する為の基礎学科であり、倫理学が学問の中心であつた。したがつて彼等の学問の中心は、道徳的な努力を積み重ねて、人生に於ける生き方を確立することにあつた。
別の言葉を使えば、賢者と呼ばれる人格を完成する事であり、賢者とは俗世間における変化から超然とする事の出来る人格であり、感情的な起伏から影響を受けない人格を完成することであつた。ストア学派はそのような身心の状態をアパテイアと呼ばれる感情的な起伏のない状態として捉え、そのような状態に達した人の事を賢者と呼んだ。
しかも賢者の生活は、[自然に従つて生活すること」であつた。そして自然とはロゴス即ち理性の意味であつたから、広くは一切の事物に通じる秩序であり、狭くは人間性であつた。したがつて自分自身が自然の本性に従うことは、宇宙の秩序に従う事と同じ意味であり、欲望は自然に背き理性に逆らうものであつたから、賢者は自分の意思を一般の自然法則と一致させ、自分自身が自然の本性即ち理性の命令するままに行動することによつて、欲望の束縛から離脱する事が出来ることを主張した。宇宙の法則、天地の教えに服従せよという教えが、ストア学派の根本思想であつた。(この項は主として「哲学事典」平凡社及び波田野精一著[西洋哲学史要」大日本出版株式会社発行に依拠した。)
3)ストア学派と仏道
古代ギリシャから古代ローマの末期に掛けて存続した、ストア学派の哲学を振り返つて見ると、その哲学体系が余りにも佛教哲学の思想体系に似ている点では、大いに驚かされる。
(1)ストア学派と仏道とは、共に理知的な哲学の二大潮流である観念論と唯物論との二つの流れとは、必ずしも同調的でないこと。
(2)ストア学派と仏道とは、観念論の基礎である思考の哲学と、唯物論の基礎である感覚の哲学とを離れ、両者の中間にある行為の上にその基礎を置くこと。
(3)したがつてストア学派と仏道とは、主張が極めて道徳的であること。
(4)ストア学派は道徳的であることの基礎として、アパテイアと呼ばれる感情的な起伏のない状態を尊重したが、アパテイアが仏道におけるサマデー(禅定)と同一の内容を指示する可能性が高いこと。
(5)ストア学派では、アパテイアの状態の中に居る人の事を賢者と呼んでいるが、この賢者という概念と仏道に於ける仏陀とが、同一の人格を指している可能性があること。
(6)賢者の生活は、[自然に従つて生活すること」であつたから、それはロゴス即ち理性に従つて生きることであり、広く一切の事物に通ずる秩序であり、狭くは人間性であつたこと。
(7)したがつて自分自身が自然の本性に従うことは、宇宙の秩序に従う事と同じ意味であり、欲望は自然に背き理性に背くものであつたから、賢者は自分の意志を一般の自然法則に一致させ、自分自身が自然の本性即ち理性の命令するままに行動することによつて、欲望の束縛から離脱する事が出来るとした事。
(8)仏道の世界において人間は、宇宙の法則、天地の教えダールマに服従するべきであると説かれたことと、ストア学派における宇宙の法則すなわちロゴスとが、極めて類似した思想であると考えられること。
等の事実から見て、ストア学派と仏道との間には、あまりにも顕著な同一性が認められる。
4)人間主義と仏道と世界
われわれ人類は余りにも長い時代に亘つて、観念論と唯物論との対立に悩まされて来たように思う。われわれ人類はあまりにも優れた思考能力に恵まれている処から、古代ギリシャにおけるプラトー以来、人類特有の思考能力に恵まれて壮大な観念論哲学の恩恵に恵まれて来た。しかしそれと殆ど同時代に於いて、古代ギリシャはデモクリトスの唯物論を持ち、この世の中を原子と呼ばれる物質の最小単位を基準とした集合体として考えて行く唯物論的な考え方も同時に存在した。
そのように人類の歴史を、人間の理知を基準として考えるならば、唯心論と唯物論との対立として捉えることも可能ではあるけれども、更に理知の世界を一歩踏み越えて、行為の世界、現実の世界に踏み込んだ場合、欧米の数千年の歴史の中に、明らかに人間主義と呼ぶ事の出来る文化の流れの存在を観得することが出来るように思われる。
そして欧米の文化の中に豊かに流れている人間主義の文化を、明らかに独立した一つの哲学体系として取り上げている思想が、佛教哲学であると思う。
「四諦の教え」 釈尊の教えの出發点である「四諦」の教えの意味は、現代語における表現で表わすならば、観念論、唯物論、行為の哲学、現実そのものという四つの夫々独立した哲学思想を意味するのであり、釈尊はわれわれ人間に対して、頭の中で考えた思考の哲学と、感覚器官を通して得た外界の刺激を基礎とした感覚の哲学と、人間の日常生活における行為を中心とした行為の哲学と、それら三つの哲学を全て包含した現実そのものという四つの独立した哲学を説き、そのような四段階の全く独立した哲学の綜合の中に、真実と呼ぶ事の出来る哲学が隠されていることが、主張されている。
「因果の理法」「因果の理法」とは、例えば自然科学の中で、この世の中の一切の物質は、100%原因結果の法則に支配されていると云う原則を信じる事と同じ内容を持つて居る。しかも仏道に於ける「因果の理法」は単に物質だけの世界ではなく、この世の中の一切が自然科学の場合と同じように,100%原因結果の法則に支配されている事を主張している。
「刹那生滅の道理」仏道では行為の哲学に於ける一環として、現実の時間は現在の瞬間に於ける一瞬だけであり、過去も実在ではなく、未来も実在ではない事を主張する。そして現実の時間が現在の瞬間における一瞬だけであるという事実から,われわれの行為も現在の瞬間における実在でしかないということが主張され、此の理論が人間は原因結果の理法の中で完全に束縛されて居りながら、しかも極めて短い現在の瞬間において、人間の行為は100%自由である事の解説に使われている。
「現実」したがつて現実とは,現在の瞬間における行為であり、現在の瞬間における人間の行為が、宇宙の全てであるという理解を持ち、自律神経のバランスした状態の中で行われる人間の行為が、このよの中の真実である事が主張されている。
道元禅師が説かれた正法眼蔵の中では、以上のような「四諦」と「因果の理法」と「刹那生滅の道理」と「現実そのもの」とが繰り返し説かれているけれども、それと同時に道元禅師は、これらの「四諦」、「因果の理法」、「刹那生滅の道理」、「現実そのもの」という四つの理論が、すべてわれわれが日々実行している坐禅の修行から現れて来るのであるから、もしもこの21世紀において、此の道元禅師の説かれた佛教哲学と、欧米において実際の歴史として経過した人間社会の実情とが合流するならば、人類は欧米における輝かしい人間主義の文化を、佛教哲学の論理にしたがつて宗教的に確定する事となり、坐禅と人間主義とに守られた輝かしい人類の黄金時代を迎える事になるであろう。
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