2009年2月11日水曜日

二十世紀に仏道は宗教から哲学に進化した。

紀元前四、五世紀の時代に釈尊が実在論としての仏道を始めて人類に与えてから、既に二千数百年の歳月が流れたけれども、その間われわれは仏道を宗教と考えざるを得なかつた。何故かというとその間、われわれ人類は、坐禅の修行が何故われわれに「さとり」を与えて呉れるのかが、科学的に解らなかつたからである。

しかし二十世紀になつて以来、われわれ人類は、科学、特に生理学と心理学との発達により、坐禅の修行が何故人類に「さとり」を与えて呉れるのかを、科学的にはつきりと解るようになつた。したがつて人類は二十世紀以降、われわれが坐禅をする事によつて何故真実を掴む事が出来るのかがはつきり解るようになつたから、それ以来、仏道は修行と学習とに依つて真実を追求し、信仰を不可欠と考える宗教の段階から、哲学の段階に進んだ。

二十世紀以前に於いては、われわれが坐禅をすると何故「さとり」を開く事が出来るのかが解からなかつた為に、人々は古来からの言い伝えを信じて坐禅を実行するしか方法が無かつた。
しかし二十世紀に入つて生理学と心理学とが急速に発達した事に依り、人間は何故「さとり」を開く事ができるのかをはつきり理解出来るようになつた。したがつて、二十一世紀以降、坐禅をする人々は、坐禅をすると人間は何故「さとり」を開くことが出来るのかを、正確に勉強して置く必要がある。

坐禅をすると人間は何故「さとり」を開くことが出来るのかを考えて見た場合、最も大切な事実は、二十世紀に人類がその体内に自律神経と呼ばれる、普通の脳脊髄神経と呼ばれる神経とは別の神経系統を発見した以降の問題である。そして従来の脳脊髄神経と自律神経とが、何処が違うかと云うと、脳脊髄神経はわれわれ人間の意思で動かす事が出来るけれども、新しく発見された自律神経の方は、人間の意思で動かす事が出来ず、自律神経が独自の力で独り歩きする性質のものである事が、はつきりと理解されて居る。

自律神経(The Autonomic Nervous System (ANS))は, 交感神経(The Sympathetic Nervous System(SNS))と副交感神経(The Parasympathetic Nervous System(PNS))との二つに分かれ、通常反対方向の働きをする。

SNSが強い時には、人類は神々に近い傾向を示す。PNSが強い時には、人類は動物に近い傾向を示す。しかしSNSとPNSとが同じ強さの中に収まると、人類は人間の状態に収まる。そして人類は本来人間である筈の義務を背負つて居るのであるから、人類は絶えずANSをバランスさせて置く事が、人間としての義務である。

人間が毎日坐禅をする義務を背負つて居る事情は、このような事情から生まれて居る。人間が神々と同じに成る事は許されない。人間が動物と同じに成ることも許されない。人間は絶えず人間として日常生活を継続して行く義務がある。したがつて人間は毎日の日常生活の中で、坐禅をする必要があるのである。

このような理論を取り入れる事に依り、仏道は、二十世紀に、その教えの背後にある理論を、信仰としてではなく、哲学として完全に理解する事に成功した。したがつて仏道は、二十世紀以降、単に宗教である事を止め、人類最終の哲学と成る事に成功した。