2009年2月2日月曜日

身心脱落について

道元禅師が説いた教えとして、身心脱落という言葉がある。
しかし身体も脱け落ちる性質のものではないし、心も脱け落ちる性質のものではない。
したがつて身心脱落という言葉も,何を意味するのかはつきりしなかつた。
しかし20世紀頃から欧米社会の中で、長足の進歩を遂げ始めた生理学、心理学の発達に伴い、
身心脱落という言葉の意味がはつきりとし始めたので、その事をはつきりと説明して置きたい。

身心脱落という言葉も、二十世紀以降、自律神経の存在が確認され、交感神経と副交感神経との共存が確認され、またその交感神経と副交感神経との均衡が確認されるようになつてから、科学的にはつきり解明されるようになつた事実である。

人間の身体が人間から脱け落ちると云う様な馬鹿げた事実が、起こり得るという理解が許された事態は、二十世紀以前の出来事であり、二十世紀以降では許す事の出来ない理解である。
また人間の心が人間から脱け落ちるという事態も、二十世紀以降は認める事の出来ない出来事である。

人間は交感神経が強い時には、心の存在を意識する事が出来る。人間は副交感神経が強い時には、身体の存在を意識する事が出来る。しかし交感神経の強さと副交感神経の強さとがバランスした時には、身体を意識する事も出来ないし、心を意識する事も出来ない。唯、坐禅の姿勢を正しく取り、じつと坐つて居る時には、身体を意識する事も無く、心を意識する事も無く、唯、姿勢を正しく取る事に専心して、正しく坐ると云う行為が実行されているだけである。

したがつて、二十世紀以前に行われていた、坐禅をして居るとある日突然様子が変わり、それまでとは違つた境地が現れて来るという様な理解の仕方は、坐禅に対する誤解である。そのような形で、身心脱落という言葉も、科学的な立場から,笑われる様な理解をしてはならない。

二十世紀以降、われわれの体内には、脳脊椎神経と呼ばれる脳細胞の働きによつて動かすことの出来る神経が有る他に、自律神経と呼ばれる、われわれの脳細胞の働きでは動かす事の出来ない神経の存在する事が発見された。しかも自律神経は思考の働きと関係している交感神経と感受作用の働きと関係している副交感神経とに分かれて居る。

そして交感神経と副交感神経とは、相互に反対の働きをする性質があるところから、われわれの交感神経が強過ぎる時には、緊張した傾向が強く、良心的であり、他人に対する批判が厳しく、外に対して戦闘的である。

これに対して副交感神経が強過ぎる時には、たるんだ傾向が強く、緊張が欠け、怠惰で、他人に対しては常に協調的ではあるけれども、厳密さに欠ける面がある。

此のような人間の在り方に関する二つの偏つた傾向は、共に正しい傾向ではなく、釈尊はこの人間の正しくない状態から離れる事を、われわれの正しい在り方としてわれわれに勧められた。そしてその為にわれわれに頻繁な坐禅の修行を勧められ、絶えず自律神経のバランスを確保して、人間としての状態を維持する事を教えられた。したがつて坐禅というものは、我慢をして長時間実行するよりも、短時間でもよいから頻繁に実行するべきものである。

したがつて身心脱落とは、身体が脱け落ちると云う意味でもなければ、心が脱け落ちるという意味でもなく、坐禅を頻繁に実行して、交感神経の強さと副交感神経の強さとが同じ強さとなり、人間が行いの世界に入る事を意味している。