2010年4月3日土曜日

第六章 刺激と感受との融合に関する検証(10頌)

第一頌

刺激に先立つて時間が先行して居る場合には、

興奮も刺激も隠された状態の中に有る。

具体的な事実がはつきりと、刺激として存在して居る場合には、

刺激も興奮として、現実に実在する事が可能である。


第二頌

刺激が興奮として、もう一度実在しないと云う事実が、

将来と云えども一体何処に有り得よう。

刺激の中にそして興奮の中に、実在して居る場合も実在して居ない場合も、

この場所に於けるこの具体的な事実は、やはり滑らかに前進して居る。


第三頌

この場合も強い力を持つものは,やはり現実の出現である。

強いものは決して、刺激と興奮との結合では無い。

しかし実際に期待する事の出来る事実は、刺激と興奮との一体化であるから、

その事に気が付かない事は、当事者の責任である。


第四頌

一緒に有る物が何時も一つの物であるとは限らない。

何故ならば一箇所に有る事が、何時も一つの物とは限らないから。

実際問題として一緒に置かれて居る物が、無関係な物であると云う事情は、

どの様な場所に於いても存在する事が、困難である。


第五頌

たつた一つの性質の中に、全ての存在が内在して居る場合には、

恐らく一人の追随者も無しに、たつた一つの現実が有るであろう。

分離された状態の中に、全ての存在が含まれて居る場合には、

恐らく一人の追随者も無しに、たつた一つの現実が有るであろう。


第六頌

全ての存在が分離された状態の中に含まれて居る。
 
その様な場合には、一体何が刺激と興奮との結合であろう。

完成された状態が、今や個々ばらばらの存在で有る場合には、

全べての存在が、あれでありこれであると云う事であろう。


第七頌

完成されたものが、個々ばらばらの存在であると、

その場合はやはり、刺激と興奮との両方の結合である。

しかし全ての存在はやはり何等かの目標を持つて居り、

自分の場合には、やはり存在と目標との両方に固定させている。


第八頌

個々ばらばらで有る事と、完成されて居る事とは,決して同じでは無い。

自分は有らゆる存在を、目標として定める。

あらゆる存在を達成させる事が、目標である。

個々の目標に対して、自分はそれが達成される事を熱望する。


第九頌

個々ばらばらの存在が、まだ確立されて居ない場合には、

全ての存在が、まだ確立されて居ない。

一体多数の中の何が、個々ばらばらの存在の中に有るのであろう。

私は全ての存在が,現実にそのような事態である事を期待している。


第十頌

この様にして、興奮した状態に依存し、刺激に包まれて、

完成された状態は、時には協調的であり、時には協調的でない。

刺激と同じ様に、一切のものが宇宙の秩序に従つて居る。

完成された状態は、時には協調的であり、時には協調的でない。