第九章 瞬前に関する検証(12頌)
第一頌
見たり聞いたりする事,その他、
感受作用その他が、正に眼の前に在る。
そして其れらの中には、それに先行して存在する様々のものが有り、
その後に、現実がたつた一つのものとして実在すると云われて居る。
第二頌
一体どう云う理由からか解らないけれども、現に存在して居ないものに所属して、
ものを見る事その他の機能が、既に存在すると云われて居る。
従つて、その様な状態に付随して、先行する様々の事物の存在が有り得るので有るが、
其の事は、現実が実在し、存在が秩序正しく置かれて居る事を意味して居る。
第三頌
見る事、聞く事等に依存して、
従つて、正に感受作用等に実際に依存して、
ある種の秩序正しい組織が先行して、存在して居る。
何故その様な場所に、現実そのものを見分ける事が出来るので有ろう。
第四頌
見る事その他の感受作用がまだ全く見当たらない時点でも、
やはり一定の正しい秩序が、見受けられる。
何か言葉では現わす事の出来ない特別のものでさえ、存在する事が将来と云えども期待出来なくなつて終う。
若しもその様に単純な事実さえ、地上に存在する事が出来無いので有れば、休む為に横になる事でさえ出来なくなつて終う、
第五頌
何等かの手段に頼ろうとしても、何かに頼ろうとしても、事態は進展し無い。
何かを頼つて見ても、何等かの手段に頼つて見ても、事態は進展し無い。
何処に何かが有るので有ろう。何も何処にも有りはしない。
あれも是も、何処にも有りはしない。
第六頌
全てのものを離れた場合、見る事その他の全ての感受作用を離れた場合、
事前には、一切のものを感受する可能性が全く見当ら無い。
しかし見る事その他の全ての感受作用に属するものが、全て推進される場合には、
違つた状況に依存して、違つた事実もやはり有り得る。
第七頌
全てのものの中に内在し、物事を見る等あらゆる感受作用の中に内在して居る場合、
その様な場合の中では、瞬前と云う事実は、認識の対象と成らない。
一つ一つの個々のものの有り方に従つて、瞬前と呼ばれる状態がどうして有り得よう。
物事を眺めると云う一つ一つの行為の中から,現実は見えて来る。
第八頌
物事を良く見る人は正に現実の人であり、物事を良く見る現実の人その者である。
その時は正にその現実の事実そのものが、現実そのものを他人に物語つて居る。
その様なたつた一つの事実に依つて、瞬前が存在し得る。
決してたつた一つの瞬間が、何時でも関連して居る訳では無い。
第九頌
物事を良く見ない人は、やはり物事を良く聞かない人でもある。
他人に対して何かを伝え無い人も、やはり同様で有る。
実際問題としては,恐らく良く他人に知らせる事に頼る人であり、他人から良く聞く人でも有るであろうけれども、
多分本人特有の習慣を大量に持つた人でもあるであろう。
第十頌
見ること、聞くこと、その他の感受作用、
知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。
其れ等のものの中には、様々の事実の中には、探し求める行為が含まれて居り、
様々の現実の中では、特に目立つものは見受けられ無い。
第十一頌
見ること、聞くこと、その他の感受作用、
知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。
そしてその様な情景の中では、現実は決して認識する事が出来ず、
知識の限界は、此の場所に於けるこれと云う表現でしか現わす事が出来ない。
第十二頌
正に眼の前に直面して居る事実が、見る事その他の知覚作用に包含されて居るので有り、
季節に適合して居る現状が,正に碓立された事実で有る。
実在して居るとか、実在して居ないとかと云う認識は不可能で有り、
其れを想像の産物として作り上げる所には、欠落した空白を避ける事が出来ない。
見たり聞いたりする事,その他、
感受作用その他が、正に眼の前に在る。
そして其れらの中には、それに先行して存在する様々のものが有り、
その後に、現実がたつた一つのものとして実在すると云われて居る。
第二頌
一体どう云う理由からか解らないけれども、現に存在して居ないものに所属して、
ものを見る事その他の機能が、既に存在すると云われて居る。
従つて、その様な状態に付随して、先行する様々の事物の存在が有り得るので有るが、
其の事は、現実が実在し、存在が秩序正しく置かれて居る事を意味して居る。
第三頌
見る事、聞く事等に依存して、
従つて、正に感受作用等に実際に依存して、
ある種の秩序正しい組織が先行して、存在して居る。
何故その様な場所に、現実そのものを見分ける事が出来るので有ろう。
第四頌
見る事その他の感受作用がまだ全く見当たらない時点でも、
やはり一定の正しい秩序が、見受けられる。
何か言葉では現わす事の出来ない特別のものでさえ、存在する事が将来と云えども期待出来なくなつて終う。
若しもその様に単純な事実さえ、地上に存在する事が出来無いので有れば、休む為に横になる事でさえ出来なくなつて終う、
第五頌
何等かの手段に頼ろうとしても、何かに頼ろうとしても、事態は進展し無い。
何かを頼つて見ても、何等かの手段に頼つて見ても、事態は進展し無い。
何処に何かが有るので有ろう。何も何処にも有りはしない。
あれも是も、何処にも有りはしない。
第六頌
全てのものを離れた場合、見る事その他の全ての感受作用を離れた場合、
事前には、一切のものを感受する可能性が全く見当ら無い。
しかし見る事その他の全ての感受作用に属するものが、全て推進される場合には、
違つた状況に依存して、違つた事実もやはり有り得る。
第七頌
全てのものの中に内在し、物事を見る等あらゆる感受作用の中に内在して居る場合、
その様な場合の中では、瞬前と云う事実は、認識の対象と成らない。
一つ一つの個々のものの有り方に従つて、瞬前と呼ばれる状態がどうして有り得よう。
物事を眺めると云う一つ一つの行為の中から,現実は見えて来る。
第八頌
物事を良く見る人は正に現実の人であり、物事を良く見る現実の人その者である。
その時は正にその現実の事実そのものが、現実そのものを他人に物語つて居る。
その様なたつた一つの事実に依つて、瞬前が存在し得る。
決してたつた一つの瞬間が、何時でも関連して居る訳では無い。
第九頌
物事を良く見ない人は、やはり物事を良く聞かない人でもある。
他人に対して何かを伝え無い人も、やはり同様で有る。
実際問題としては,恐らく良く他人に知らせる事に頼る人であり、他人から良く聞く人でも有るであろうけれども、
多分本人特有の習慣を大量に持つた人でもあるであろう。
第十頌
見ること、聞くこと、その他の感受作用、
知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。
其れ等のものの中には、様々の事実の中には、探し求める行為が含まれて居り、
様々の現実の中では、特に目立つものは見受けられ無い。
第十一頌
見ること、聞くこと、その他の感受作用、
知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。
そしてその様な情景の中では、現実は決して認識する事が出来ず、
知識の限界は、此の場所に於けるこれと云う表現でしか現わす事が出来ない。
第十二頌
正に眼の前に直面して居る事実が、見る事その他の知覚作用に包含されて居るので有り、
季節に適合して居る現状が,正に碓立された事実で有る。
実在して居るとか、実在して居ないとかと云う認識は不可能で有り、
其れを想像の産物として作り上げる所には、欠落した空白を避ける事が出来ない。
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