2010年4月20日火曜日

第九章 瞬前に関する検証(12頌)

第一頌

見たり聞いたりする事,その他、

感受作用その他が、正に眼の前に在る。

そして其れらの中には、それに先行して存在する様々のものが有り、

その後に、現実がたつた一つのものとして実在すると云われて居る。


第二頌

一体どう云う理由からか解らないけれども、現に存在して居ないものに所属して、

ものを見る事その他の機能が、既に存在すると云われて居る。

従つて、その様な状態に付随して、先行する様々の事物の存在が有り得るので有るが、

其の事は、現実が実在し、存在が秩序正しく置かれて居る事を意味して居る。


第三頌

見る事、聞く事等に依存して、

従つて、正に感受作用等に実際に依存して、

ある種の秩序正しい組織が先行して、存在して居る。

何故その様な場所に、現実そのものを見分ける事が出来るので有ろう。


第四頌

見る事その他の感受作用がまだ全く見当たらない時点でも、

やはり一定の正しい秩序が、見受けられる。

何か言葉では現わす事の出来ない特別のものでさえ、存在する事が将来と云えども期待出来なくなつて終う。

若しもその様に単純な事実さえ、地上に存在する事が出来無いので有れば、休む為に横になる事でさえ出来なくなつて終う、


第五頌  

何等かの手段に頼ろうとしても、何かに頼ろうとしても、事態は進展し無い。

何かを頼つて見ても、何等かの手段に頼つて見ても、事態は進展し無い。

何処に何かが有るので有ろう。何も何処にも有りはしない。

あれも是も、何処にも有りはしない。


第六頌

全てのものを離れた場合、見る事その他の全ての感受作用を離れた場合、

事前には、一切のものを感受する可能性が全く見当ら無い。

しかし見る事その他の全ての感受作用に属するものが、全て推進される場合には、

違つた状況に依存して、違つた事実もやはり有り得る。


第七頌

全てのものの中に内在し、物事を見る等あらゆる感受作用の中に内在して居る場合、

その様な場合の中では、瞬前と云う事実は、認識の対象と成らない。

一つ一つの個々のものの有り方に従つて、瞬前と呼ばれる状態がどうして有り得よう。

物事を眺めると云う一つ一つの行為の中から,現実は見えて来る。


第八頌  

物事を良く見る人は正に現実の人であり、物事を良く見る現実の人その者である。

その時は正にその現実の事実そのものが、現実そのものを他人に物語つて居る。

その様なたつた一つの事実に依つて、瞬前が存在し得る。

決してたつた一つの瞬間が、何時でも関連して居る訳では無い。


第九頌

物事を良く見ない人は、やはり物事を良く聞かない人でもある。

他人に対して何かを伝え無い人も、やはり同様で有る。

実際問題としては,恐らく良く他人に知らせる事に頼る人であり、他人から良く聞く人でも有るであろうけれども、

多分本人特有の習慣を大量に持つた人でもあるであろう。


第十頌

見ること、聞くこと、その他の感受作用、

知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。

其れ等のものの中には、様々の事実の中には、探し求める行為が含まれて居り、

様々の現実の中では、特に目立つものは見受けられ無い。


第十一頌

見ること、聞くこと、その他の感受作用、

知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。

そしてその様な情景の中では、現実は決して認識する事が出来ず、

知識の限界は、此の場所に於けるこれと云う表現でしか現わす事が出来ない。


第十二頌

正に眼の前に直面して居る事実が、見る事その他の知覚作用に包含されて居るので有り、

季節に適合して居る現状が,正に碓立された事実で有る。

実在して居るとか、実在して居ないとかと云う認識は不可能で有り、

其れを想像の産物として作り上げる所には、欠落した空白を避ける事が出来ない。