2010年4月18日日曜日

第八章 行為と動作との融合に関する検証(13頌)

第一頌

現実に実在するものは、行為であり、行為そのものである。

何か現実に実在するものを作り出す訳ではなく、たつた一つのものが既に出来上がつて居るので有る。

何かを実行する事は、他の何かを手に入れる為に、別の何かを我慢することでは決して無い。

しかし行為が他の目標を達成する為に我慢の対象と成ることは、憧れの目標となつて居る。


第二頌

何かを実行する事は,現実の存在の中には実在して居ない。

行為は事実問題として、恐らく行動的な事実の減少を意味して居る様に思われる。

何かを実行する事は、現実の存在の中に実在して居る訳では無い。

何かをする人は、実際問題として特別の目標を持たない場合が多い様である。


第三頌

現実的でない存在が、何かを作る場合には、

行為や行為を実行する事により、現実的でない存在が作られる。

行為の理由付けがはつきりして居ない場合も有り得るし、

行為をする人が、事実問題として理由付けに関して、はつきりし無い場合も有る。


第四頌

刺激物が何かの達成を可能にすると云う事は,実際問題として有り得無い。

その事を実現させる為の原因を見出す事は、全く不可能である。

その様な事実が存在し無い場合には、

その動機そのものを認識する事が、完全に有り得無い。


第五頌

宇宙の秩序と呼ばれるものも、宇宙の秩序と呼ばれないものも,眼で見る事は出来ない。

何かを実行する事等に帰属して居るものも、綜合的な存在に帰属して居るものでは無い。

宇宙の中に実在して居るものでは無く、宇宙以外の場所にも含まれて居ないけれども、

結果や結果に吸収されてその中で呼吸して居るものは、認識する事が出来ない。


第六頌

結果の中では、利益からの解放が実在し無い訳では無い。

しかし天国の様な世界に接近する事態は、起こらない。

探究は全て何かを実行する事の中に、事実上含まれて居る。

通常特別の目標を持たず、創造神プラジャー・パテイが、自分自身に固執して居る。


第七頌

何かを実行する事は、現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつた存在を意味するの
であつて、

現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつて出来上がつたものが、具体的なものであると云う訳では無い。

お互いに邪魔し邪魔されて居る状態が、現実的な状態であるから、

現実的では無くしかもたつた一つのものが、一体何処に存在する事が出来るで有ろう。


第八頌

たとえ現実的なものに頼つて見ても、非現実的なものを作り出す事は出来ない。

現実的で無いものに頼らずに実際に作り出されたものが、正に現実である。

全てのものに関連して、何かを実行する人に依つて仕事が実行される。

其処に於ける悪徳さえも、正に具体的な事実であるから。


第九頌

現実的でない存在が目標では無いし、現実的な主体が主人公と云う訳でもない

やはり目標は正に、現実的な存在と現実的で無い存在とが一つに重なつた綜合的な存在である。

行為の実行や行為そのものが既に実行されて居り、

言葉で語られる以前から、正に諸々の理論が具わつて居る。


第十頌

現実的で無い存在が、同時に現実的な存在で有ると云う事は、絶対に有り得無い。

現実的であり同時に現実的で無い存在も、正に同じ様に絶対に有り得無い。

行為も行為の実行も、正に実行される。

言葉を使つて語られる以前から、正に諸々の理論が実在して居る。
 

第十一頌

現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつた存在が、行為の主体と成る。

現実的なものも現実的でないものも両方とも、行為の実行では有り得無い。

行為としての具体的な事実そのものが、正に科学的な議論の対象で有り得る。

言葉を使つて議論をする以前から、正に様々の理論そのものが有る。


第十二頌

行為の実行も行為そのものも、明々白々として居る。

其れは明々白々としたもので有り、同時に行為の実行そのもので有る。

行為は実行される以外の方法で、具体化される方法が有り得無い。

その様な事実を実際に自分の眼で見る事自体が、非常な幸福を自分のものにする手段で有る。


第十三頌

此の様な方法で、自分自身が事実を感受する事に依り、

絶望から離れる事が、様々の行為である。

しかし行為をする事自体が、行為の結果自身を自分自身も受ける形に成る事が必然の成り行きであるから、

残存した状況を離れ、様々の状況を離れて、別個の発展に進んで行く可能性が有る。