第十二章 苦しみに関する検証(10頌)
第一頌
自分自身がやつた行為も、他人がやつた行為も、
自分自身と他人との両方でやつた行為も,合理的なものでは無い。
たつた一つの苦しみと呼ばれるものだけが、獲得する為の目標とされて居る。
その様な具体的な事実が、実際に実行可能な仕事であり、焦げ付きの対象と成る事が無い。
第二頌
自分自身で準備を完了させた仕事が有る場合には、
自動的に発展した状態の無い事が、はつきりして居る。
対象としての集合体は眼の前に在るこれであり、主体としての集合体が様々の物と現象である。
何故ならば、綜合的な存在が眼の前に在る事は、明々白々として居るので有るから。
第三頌
其の場合、其処に於いても様々の状況が変わり、
縛つて置きたいと云う欲求に動かされて、その様な場合でもやはり、その措置が変わる。
他人の行為に依つて、苦しみが存在する可能性も有る。
多数の他の人々に依つて作られたものが、指示された様々の例で有る場合も有る。
第四頌
自分自身と云う人格の作り上げた行いが、苦しみで有る場合には、
その苦しみはやはり、無いのと同じで有る。
自分自身と云う人格も、やはり現実で有り、その様な多数の人々の中の一人で有る。
苦しみはやはり、自分自身の行いが作り出したもので有る。
第五頌
他人と呼ばれる人格の生み出したものも、苦しみを作り出す。
其の場合はそれに伴つて、事態が照らし出される。
他人に依つて作り出された様な性格の事実も、苦しみを作り出す。
しかし現実が苦しみに依つて作り上げられると云う様な事実は、何処にも有りはし無い。
第六頌
自分自身以外の人格に依つて何かが生まれる事は、苦しみで有る。
其の場合、一体誰が自分自身以外の人格で有ろう。
苦しみを持つて居ないと云う事が、其の場合、何かを作る場合の性質で有ろう。
他の人と一緒になつて、刺激し合わない事が、具体的な事実で有ろう。
第七頌
其の事に関連して、製作すると云う事の中には、成功し無いと云う考えは含まれて居ない。
他人が作る事の中に、自分の苦しみが含まれて居ると云う事が、どうして有り得よう。
其の問題は、何かを作る上に於いて、苦しみの問題とは無関係であるから。
其の問題も、其の問題に含まれて居る問題も、恐らく自分自身で作り出したもので有ろう。
第八頌
自分のやつた行為と苦しみとが、互いに均衡を保つて居ると云う様な事実は無い。
何故ならば、具体的な事実に即応して生まれた事実が,仕事の成果であると云う様な均衡の問題とは、関係が無いのであるから。
他人のやつた仕事は恐らく,正に自分のやつた仕事とは違うので有るから、
苦しみが,他人のやつた仕事であると云う様な事が、どうして有り得よう。
第九頌
恐らく他人のやつた仕事も,自分のやつた仕事も両方とも、同じ様に苦しみで有る。
何故ならば其の場合、仕事は一つ,一つ,個々ばらばらのものであるから。
他人がやらなかつた仕事も,自分がやらなかつた仕事も、両方とも、
苦しみで有ると云う様な不合理は、何処にも有り得無い。
第十頌
排他的に誰か一人の人の独占であると云う様な事情は,苦しみに関しては無いのであるから、
四種類の苦集滅道に対する認識も、認識の対象では無い。
外部に存在すると云う事も、正に存在すると云う点では相違が無いので有るから、
苦集滅道と云う四つの考え方に関する認識も、認識の対象と成るものとは限ら無い。
自分自身がやつた行為も、他人がやつた行為も、
自分自身と他人との両方でやつた行為も,合理的なものでは無い。
たつた一つの苦しみと呼ばれるものだけが、獲得する為の目標とされて居る。
その様な具体的な事実が、実際に実行可能な仕事であり、焦げ付きの対象と成る事が無い。
第二頌
自分自身で準備を完了させた仕事が有る場合には、
自動的に発展した状態の無い事が、はつきりして居る。
対象としての集合体は眼の前に在るこれであり、主体としての集合体が様々の物と現象である。
何故ならば、綜合的な存在が眼の前に在る事は、明々白々として居るので有るから。
第三頌
其の場合、其処に於いても様々の状況が変わり、
縛つて置きたいと云う欲求に動かされて、その様な場合でもやはり、その措置が変わる。
他人の行為に依つて、苦しみが存在する可能性も有る。
多数の他の人々に依つて作られたものが、指示された様々の例で有る場合も有る。
第四頌
自分自身と云う人格の作り上げた行いが、苦しみで有る場合には、
その苦しみはやはり、無いのと同じで有る。
自分自身と云う人格も、やはり現実で有り、その様な多数の人々の中の一人で有る。
苦しみはやはり、自分自身の行いが作り出したもので有る。
第五頌
他人と呼ばれる人格の生み出したものも、苦しみを作り出す。
其の場合はそれに伴つて、事態が照らし出される。
他人に依つて作り出された様な性格の事実も、苦しみを作り出す。
しかし現実が苦しみに依つて作り上げられると云う様な事実は、何処にも有りはし無い。
第六頌
自分自身以外の人格に依つて何かが生まれる事は、苦しみで有る。
其の場合、一体誰が自分自身以外の人格で有ろう。
苦しみを持つて居ないと云う事が、其の場合、何かを作る場合の性質で有ろう。
他の人と一緒になつて、刺激し合わない事が、具体的な事実で有ろう。
第七頌
其の事に関連して、製作すると云う事の中には、成功し無いと云う考えは含まれて居ない。
他人が作る事の中に、自分の苦しみが含まれて居ると云う事が、どうして有り得よう。
其の問題は、何かを作る上に於いて、苦しみの問題とは無関係であるから。
其の問題も、其の問題に含まれて居る問題も、恐らく自分自身で作り出したもので有ろう。
第八頌
自分のやつた行為と苦しみとが、互いに均衡を保つて居ると云う様な事実は無い。
何故ならば、具体的な事実に即応して生まれた事実が,仕事の成果であると云う様な均衡の問題とは、関係が無いのであるから。
他人のやつた仕事は恐らく,正に自分のやつた仕事とは違うので有るから、
苦しみが,他人のやつた仕事であると云う様な事が、どうして有り得よう。
第九頌
恐らく他人のやつた仕事も,自分のやつた仕事も両方とも、同じ様に苦しみで有る。
何故ならば其の場合、仕事は一つ,一つ,個々ばらばらのものであるから。
他人がやらなかつた仕事も,自分がやらなかつた仕事も、両方とも、
苦しみで有ると云う様な不合理は、何処にも有り得無い。
第十頌
排他的に誰か一人の人の独占であると云う様な事情は,苦しみに関しては無いのであるから、
四種類の苦集滅道に対する認識も、認識の対象では無い。
外部に存在すると云う事も、正に存在すると云う点では相違が無いので有るから、
苦集滅道と云う四つの考え方に関する認識も、認識の対象と成るものとは限ら無い。
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